その人でなければ書けない未熟作?
昨日書いた、須藤真澄「マヤ」のこと。
これにも思わず自分でコメントつけちゃったけど、「雪魚の棲処」が作品集『天国島より』に収録されなかったのも、なんとなくわかる。書きたいことを、あまりにも明確に言葉で押し出してる。『天国島より』の中に並んでいる他の作品は、書きたいことが作品世界自体から漂うようになっているけど、ここまで言葉にしちゃうと、合わなかったんじゃなかろうか。なんというか、若書きを見たというか(おい、失礼な書き方ちゃうか>自分)。
1月、たまさか機会があって小川洋子の「シュガータイム」を読んだ。この作品はまだ読んだことがなかった。芥川賞の受賞前から女性誌マリ・クレールに連載していたもの。小川洋子の作品の中では初期といってよいと思う。
女子大の文学部に通うかおるは、大学4年を迎える春休みに、食欲が止まらなくなる。そして、そのことを日記に詳細に書き記し始める。東京へやって来る小さな弟(身体が成長しない難病にかかっている)航平を迎え、自分はホテルのレストランでバイトを始めてから。そして、かおるの彼氏、吉田さんは性的不能であり、それを知った上でなおかおるはつきあっている。吉田さんの友人の紹介で、精神科医に二人が行き、二度と行かないと話をしていた。
かおるの食欲の変化は、親友の真由子に先に打ち明けられる。そんな折、真由子の発案で、真由子の彼氏、かおる、そして弟の航平に、吉田さんとで、大学野球を見に行くことになる。ところが、吉田さんは来ない、結局野球観戦は吉田さん抜きになる。帰宅後の夜、やっと電話が来たかと思うと、彼はバイクで向かう途中で交通事故に巻き込まれたという。そして、そのときに一緒に乗せていた人に付き添うという。翌朝の新聞記事では、吉田さんが後ろに乗せていたのは女性だったという・・・こうして中盤へと滑り込んでいく話は、大学4年の秋の野球リーグ戦まで続く。興味を持たれたらお読みください、哀しみの昇華を、最近J-POPで流行りのメッセージソングとはまったく違う形で描いている。それに、携帯電話がなかった頃のもどかしい恋愛も、面白いでしょ?
ただ、あれほど徹底的な構成をもって、透徹した文を書く小川洋子にしても、ここではそこまでがっちり固めきれず、脇が甘いと言いたくなってしまう瞬間がある。それは最後、表題の「シュガータイム」を、作中人物が説明してしまうことにも現れている。
ただ、あとがきにある
どんなことがあっても、これだけは物語にしておきたいと願うような何かを、誰でも一つくらいは持っている
から始まって、
この小説はもしかしたら、満足に熟さないで落ちてしまった、固すぎる木の実のようなものかもしれない。それでも、皮の手触りや、小さな丸い形や、青々しい色合いだけでも味わってもらえたらと思う。いずれにしてもこの小説は、わたしがこれから書き進んでゆくうえで、大切な道しるべになるはずだ。
という言葉を読むと、決意して、あえて飛び込んでやってみたような気合いも感じられる。
これもある意味、若書きと見える。だけど、読む価値はあるし、存在自体が胸を打つ面を持っている。
そういう作品も含めて、作者の軌跡だ。
全然違う分野だし比較するものではないが、須藤真澄の「マヤ」に収録されている作品も、同時期の他の作品と比べて完成度で見劣りするものがあったとしても、それが書かれることの意味は感得できるものだ。
そして、こういうものを読んだ時こそ逆に、読書の醍醐味を感じたりする。作品に書かれたテーマを「要するにこの作品はこうだ」と、情報として取り出すのを読書と思っている人にとっては、無駄かもしれないね。
だけど、作者と、その背後の胸/頭/心/世界の広がりは、その作者でなければ書けない未熟な作品に出会った時こそはっきりと感じられたりする。うまくいった作品だけでは得られない、固く青い感じ方の中に、確かにその人ならではの表現が、むしろ裸で差し出されている。こんな風に見えて、感じていたんだと、人の位相の多彩さと深さを思う。少なくとも「あらすじで学ぶ名作」では得られない、楽しいことだ。
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