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2004.04.16

読んだぞ、若者じゃない21世紀文学

3月12日に「文芸誌の積ん読、福永信」で、新しい号が手元にあるのに古い号を読んでる、などと書いていた。その後も、急いでいる時など手近に置いてあるものをぱっと鞄に突っ込んで出かける。移動の電車で「えぇと、群像の4月号か、今読んでるのは・・・しまった、3月号だったじゃん」などと声に出さず呟き、うーむと思いつつもやっぱりそのまま読んだり。パラレルに、細切れに。
4月に入ってから負債を返上するように読んでいた。わらわらと、もりもりと。

長嶋有「パラレル」(文學界2月号)。
「僕」こと向井七郎は、ゲーム会社に就職して、システムやシナリオをデザインする仕事をしていたが、会社が倒産。フリーで同じ仕事を続けるものの、契約した相手にキレて辞める。そのことで明確になった妻との不仲は、やがて妻の不倫から生じた別居生活を経て、離婚に至る。ただし、元ツマとの関係は完全に断たれたわけでもなく、時々メールや電話のやりとりがある。
一方、僕には津田幹彦という大学時代からの友人がいる。彼の父は事業に失敗して夜逃げし、彼は母と一緒に千葉へ引っ込んで退学。就職して激しく仕事をし、貯めたお金で事業を起こすと、従業員を50人も使う規模へと成長させる。
津田の起こした事業を最初の頃から支えてきた大輔の結婚式直前、津田と向井が待ち合わせるあたりから話がスタート。向井はネクタイを結ぶことが出来ないので、津田に結んでもらって式に出る。津田は(独身ながらも)社長としてスピーチ。その津田は、キャバクラに入れあげていて、サオリと話をしつつ、レイコに入れあげている(というか、いままさに落とそうと画策しているようだ)。
話は時間に沿って進まず、思い出を遡及しては今の時間へと戻り、を繰り返す。
向井と元ツマとの微妙な距離感。津田とキャバクラ嬢の距離感(登場するうちの一人と結婚することになります、さてそれは誰?)。そして、津田と向井。
「なべてこの世はジョブとラブ」、「俺は面食いじゃない、顔面至上主義なんだ」、「ラブより弟子」、「(複数の女性と同時につきあっていくことを)パラではしらせる」、みんな津田の言葉。津田は女出入りが激しい。向井はそんな津田の女性の趣味を、美しいけどなんだか表情に乏しいように感じている。オンナを取り合わない、そして、お互いにそれほど深入りはしないが、どこか響き合う瞬間があって、しかしそれは断じて友情という特性の薄い一般的な言葉に置換できるものではない。
現在30代後半に入った世代、深入りせずにお互いが並行して生きつつ、ひょんな瞬間にぐっと触れ合ったと思うと、また距離があく、そして完全に切れることもない。切るかつながるか二つに一つではない、しかしそれは自分への正直さへの表明である、そういう生き方をする世代の、人とジョブとラブへの距離、そして生きること。
読み終えた時は印象に残っていた。
他にも、文學界4月号の短編、たとえば山田詠美「夕餉」(夕餉の支度をする女性、彼女が自分の存在を自覚した瞬間)、あるいは藤野千夜「ペティの行方」(美少女という自覚を持つ少女の悪意とその周り)、吉田修一「夫婦の悪戯」(後輩の結婚式に呼ばれた夫婦が悪戯でお互いにウソをつきあうだけの話だが、ホテルの密室空間の感触が生きてる)といった手練の読み物も楽しんだ。

だけど、中編の小池昌代「木を取る人」(詩人の眼が散文に活きてる)に続いて、長編加賀乙彦「ザビエルとその弟子」(ともに群像4月号)を読み、おや、淡々としてるようでみんななかなか、と思っていると。とどめに笙野頼子「金毘羅」(すばる4月号)。

この「金毘羅」。作者自身の生年月日をまず持ち出してしまう。そこで生まれた赤ん坊の魂はすぐに絶え、海にいる金毘羅の魂が陸の「御山様」を目指して上がり、乗っ取った、それが私だったのだ、そして私はそれにやっと気付いたのだった、というスタート。私の個人史−−−国家神道の本場伊勢に生まれ育ち、金毘羅ゆえに人としてうまく生きていけない上に、女の身体で男として途中まで育てられ、作家になって最後に千葉へ移った−−−と、神話・神道・神仏習合の歴史等とが重なりあっていく。長大さが饒舌にも見えかねないギリギリのところを、笙野節全開で突っ走るテンション。
その頂点は、長く人間として暮らしてきた私が、金毘羅であることに覚醒した瞬間にやってくる。生まれを思い出しながら最後の一点(御山様)を目指して長い坂を登攀していく、その胆力と膂力にすべてが終結していく。しかもそのシーンは、子供時代の私が、人間としての私の生活を不愉快に思わなかった幼かった奇跡の一日、ハイキングで上った山から団扇で神を呼び寄せる天使となる、すばらしい平和と静寂。人間と金毘羅の習合による苦しい暮らしを、真剣かと思えばぱっと身を翻してからかうようなそれまでの語りが、この平和な一点に結実する。
自分を純化させる過程そのものが信仰であり、それゆえ伝導も教化も行わえるわけがない。国家の生み出す認識と制度、性差の生み出す認識と常識、そういった前提を弄びながら立論して悦に入る知欲主義者たちを突き放し、神話と個人の関係を徹底して(妄想という自覚さえ持って)生み出す。
そうか、小説ってここまで自由だったんだ。
実は、笙野節全開の作品で、一番圧倒され、感動したのは今回だった。これはべらぼうな作品だ。要約してどうなるもんじゃない。
読め。以上。

津島祐子「ナラ・レポート」は文學界4月号で連載完結。実は熱心に読んでいなくて、時々抜けてるけど、労作だ。あとでまた読み返してみよう。すばらしい、おつかれさまでした。
ちなみに、群像3月号から連載が始まった橋本治「権力の日本人」。平家物語について、橋本治流に読み解いていくのだが、これもなんだか読んでしまう。

実は、「ナラ・レポート」や辻原登「ジャスミン」(文學界にて集中連載、現在単行本発売中)にしても、そして「金毘羅」にしても、今の日本で生きることを振り返るための、長大さと強靭さに触れている。それはやはり水村美苗「本格小説」に端を発している流れに感じられる(おそらく同時多発的に多くの作者が感じていたことが、時期を前後して出てきたのだと思うが)。
21世紀の小説は、若い世代だけでなく、これほど豊かに語られているのだなぁ、と。

さて、もっと読みましょう!

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