芥川龍之介展 @ 神奈川県立近代文学館
「横浜の近代文学館」で軽く触れたまま、放置していた。もう一度見に行く機会があればと思っていたけど、いつになるかわからなくなってきたし、感想を書いておく。
朝日新聞夕刊の文化欄でも記事が出ていたし、行けば掲示されているのだが、芥川龍之介展は県立神奈川近代文学館20周年記念でもあり、12年前の芥川展で最多の入場者数を記録した上に、再開催の要望が多かったからだという。そういえば、開高健展などはそこそこの入り、それに比して谷崎展や中島敦展などは意外に入っていた(もちろん漱石展は混雑していた)。文学という言葉に某かの感慨を抱いて行く人々の年齢層を考えると、大正文壇作家および教科書掲載作家のほうが人の入りがいいのかもしれない。(最近の教科書掲載作家はだいぶ変化してきているようだけど。)
今回は土曜日に行ったせいか、特に混雑していた。しかも、手記・手紙や蔵書などの展示も多く、丁寧に文字を読んでいるとあっという間に2時間が過ぎる(さらさら見れば1時間もかからないだろうけど)。私は後半、飛ばして見る事になった。もしも行かれる方で、ゆっくり読みつつ見ていくつもりがあれば、閉館時刻は午後5時であることを念頭に組み立てられたほうがよいと思う。
展示会全体は、生涯に沿って、写真・記録・手紙・原稿・メモ・絵などを陳列したもの(生い立ちに関するところは家系図もある)。「横浜の近代文学館」で、旧制高校在学中から海外の原書をかなり読み込んでいたことに触れたが、むしろ日本の怪異譚を集めてはまとめていたことも、印象に残る。王朝ものだけでなく、「堀川保吉もの」「河童」などにも時々見られるゾクッとするような肌触りを連想させる。
今回の目玉は、漱石が芥川の「鼻」を激賞して文壇で高名になった(1916年)直後、小説の依頼がきて書いた作品が、どうにもいい形に定まらない不安を漱石に向けて書いた手紙(プログラムp.8に収録)と、その返事だろうか。悩む芥川に対して、ちょっと考えすぎていて運びがスムーズでないところもあるが、クライマックスのくだりはよく、なにより普通よりはずっとよいのだから、悩みすぎないことだ、何本も書くとわかるようになってくる、といった内容のことが記されていた。
この作品は、「芋粥」である。確かに「鼻」ほどのインパクトはないが、よく知られた作品であり、当時から評判がよかった。自作に対して、厳しいバランス感覚の批評眼で接していたことが垣間見える。
そうして漱石は亡くなり、芥川の初の著作「羅生門」が発刊され(1917年)、時代の寵児への道を歩き出す。同年、薄田泣菫(大阪毎日新聞文化部所属、詩人としても有名)から新聞小説連載の依頼があり、「戯作三昧」に結実。
この頃、鎌倉で教師(海軍機関学校英語担当)と創作の二重生活をしており、その脱出を試みている。結果はよく知られているように、薄田泣菫に話をして1919年、毎日新聞の文化部に移り、職業作家になる。その直前に、慶応義塾の知人に話をして、東京の大学での職業も模索していた。実は、東京に戻ることも大きな目的になっていたようだ。確かに創作に関して、人に会い、資料を得て、ということを考えれば、東京のほうが有利だったのかもしれない。その後は「田端文士村」での生活となる。
おもしろいのは薄田泣菫の求めに応じて一生懸命、新聞連載を心がけていること。なかなかうまくいかないのだが、新聞社に入る前から「給金をもらっているのだから」と何度か試みている(契約でお金をもらえるようになっており、すでに生活には困っていなかったようだ)。
結局、1920年を最後に新聞連載は行われなくなるのだが、妙に律儀な性格だったのだ。
この性格が、終生ついてまわる。1921年、大阪毎日新聞本社に呼び出され、中国特派を打診される。そうして、なんとかケリをつけて出発するものの、直前にかかった感冒がよくならず、特派員記事も満足にかけぬ状態で、予定を切り上げて帰国。その後も体調不良と不眠を抱えたまま、原稿の依頼や督促に律儀に応えようとする。睡眠薬の常用と、王朝ものを書かなくなるのがこの時からという。
律儀な性格は、晩年に至って、自分の家族が経済的な問題で苦しんでいることに際して、親族会議を開いて支援を約束したり(書面に残っている)、改造社の日本文学全集(いわゆる円本)の宣伝のために講演旅行に参加したりと、様々な面に出ていたようだ。心身をすり減らしていったようでもある。
自殺直後の新聞報道が展示されており、当時の衝撃の大きさが伝わる(後追い自殺者が出たのである)。これに匹敵する扱いは、三島由紀夫のニュースが最後だろうか。
菊池寛の弔文、死後の全集作成にあたっての佐藤春夫の言葉なども展示。有名な、宮本顕治が雑誌「改造」の懸賞論文で一等になった、芥川の死を扱った「敗北の文学」もある。(ちなみに、この時の次点が、小林秀雄「様々なる意匠」であるのも有名な話ですな。)
展示会のサブタイトルは「21世紀文学の預言者」である。
会場の至る所に掲げられている「侏儒の言葉」などからの引用。このアフォリズムは、文藝春秋巻頭言をまとめたものである。ちなみに、最近の作家でここまで影響力を持った文藝春秋巻頭言は、司馬遼太郎だろうか。晩年の芥川のキリスト教への傾斜と、遺作「続・西方の人」も当然とりあげられており、ここからも預言者というイメージが立ち上がるのだろうか。
21世紀文学の預言者としての言葉を拾う、という趣向らしい。
この趣向が成功しているかどうか…正直にいえば、よくわからなかった。そんなものはなくても、おそらく多くの人がそれなりに様々なイメージと言葉を受け取って帰っていくはずだし。
私が展示されていれば嬉しいと思っていた、初版本の装丁などはあまりなかった。大正時代の装丁はいいものが多いのだが、今回はあまりお目にかかれず(谷崎展ではかなりあった)。
一方、自筆の絵はがき、晩年の河童の絵などが展示されていた。作家が望んではいないのかもしれないが、目に何がとらえられているかが垣間見えて、こういうもののほうが原稿よりおもしろい。もちろん、手紙や手記などは原稿とはまったく別の面白さがあるが。
もっといえば、芥川也寸志がTVで語っていた父の記憶として、SP盤でストラヴィンスキー「火の鳥」などを所有して、聞いていたという話もある。この話に、私はひどく打たれた。当時の現代音楽を、聞いていたわけだ。
(もっとも「火の鳥」は1910年の作品、1920年代にストラヴィンスキーは古典回帰などと言い出して、作風が変化していったのであるが。)
芥川のイメージと、「火の鳥」などの響きは、離れていそうで意外に近くないだろうか。豊麗な響き、急に飛び出すガクガクとしたリズム。そういうものも集めると、晩年の芥川の作品にある、おだやかなようでいて、どこか乱れた、独特のリズムとも通底するものがあるかもしれなかったなぁ、などと思う。せっかく五感を活用できる場なのだし。
そんなことを雑然と考えつつ、プログラムを買って、出た。
あれこれ書いたが、質量ともに大規模であり、作家の生涯と作品を一覧するにはまたとない機会でもある。ご興味があれば、ぜひどうぞ。現在開催中、6/6まで。
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