五十嵐大介「魔女」1
発売日をだいぶ経てから買ったコミックスのひとつ、五十嵐大介「魔女」の第1集(小学館、IKKIコミックス)。五十嵐氏久々の、がりがり描き込まれたストーリー。
アフタヌーンに連載している「フォレスト・ノート」「リトル・フォレスト」は、田舎暮らしの中で、浮かび上がってくる思い出や出来事や試行錯誤を、淡々と描いている。絵もどちらかといえば白っぽく、日本の山里の空気がじんわり浮かび上がるもの。
対して、「魔女」の絵は、精密な描き込み。もともと五十嵐氏の絵は、線をたくさん描くものだが、この作品集では線とスクリーントーン、べた塗りのグラデーションが濃い。
そうして、話自体も濃密なもの。
最初の話、第1抄「SPINDLE」は、前後篇から成る。東西にまたがって世界を支配するものが目指す「首都」が舞台。作中で「首都」と呼ばれるそこは、イスタンブールしかないだろう。美しい白人の女性が、この「首都」で自分の望みを達成しそうと動き出す。
一方、「首都」から1000キロ離れた遊牧民族の野営地では、代々女性が糸を紡いで刺繍を織るうちに、「伝言」を織ってしまうことがある。少女は「伝言」を織り、その「伝言」の主の声に従って、首都に赴く。
「首都」での30年前。冒頭の美しい女性、ニコラの幼い日。バザールの若衆の一人、ミマールに思いを寄せるが、ミマールの弟のフォローもむなしく、完全に拒絶されてしまう。その時の強い思いが、彼女を実業家に、そうして、世界を支配する原理に精通する魔女へと駆り立てる。
バザールを取り壊し、スーパーマーケットを建てにやってきた彼女は、手始めに自分を邪魔する者を魔術で始末すると、ミマールの周辺で動き出す。
一方、「伝言」に導かれた少女は、ニコラがミマールをおびき出すために発した声を、一瞬耳にする。
ニコラが指定した中央門とは、東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティヌスの怨念を封印する場。彼女はここで、自分がそれまでに蓄えた力を総動員して、ミマールからすべてを奪おうとするが…
冒頭の話として、作品の基調を示すには十分。おもしろく堂々としている。
「ゾハル」(光輝の書と訳される、ユダヤ教神秘主義の教典、13世紀に出現し、19〜20世紀にまとめられたというが、正確な出自には謎もあると言われる)、「抱朴子」(中国の晋代に、葛洪がまとめた神仙道の教典)といった書名も登場する。黙示録的な設定ではあるが、これら魔術の詳細には触れず、また人類などといった大きな話は出てこない。
どうやらこの作品集は、自分が自分であるために必要であるという確信の元に、その人を強く規定し、かつ突き動かす思いが、周囲の拒絶や軋轢を起こす時の話らしい。
そのとき彼女は、人間の認識の限界を踏み越えて、世界の深部に触れる。死力の限りを尽くして、軋轢に立ち向かう。正確には、魔術の限りを尽くして、だ。
第1話に関しては、欲を言えば、何かが足りない気がする。せっかく説明を少なく紡ぎ上げた話の最後に、少女がちょっとおしゃべりしてしまうところが、少々うるさく感じられてしまったからだろうか。ややぜいたくな望みではあるが。
第2話「KUARUPU」の基本路線も似ている。舞台は熱帯雨林。稀代の呪術師クマリの見せるイメージの深さ。こちらのほうがはるかに強くおそろしい。森の作家、五十嵐大介の面目躍如たる傑作。
こちらでは、熱帯雨林の大開発が済んだ後の収穫について、まさに黙示録的なコマが描かれる。この読後感をどうみるかで、作品の評価とは別の、好悪の印象が変わってくるかもしれない。もっとさらりと描いたほうが、という人もいるだろう。ただ、昨今のBSE、鳥インフルエンザといった問題を思うと、森の作家は静かに怒っていることが、伝わっても来る。
近頃のIKKIは、五十嵐大介をはじめとして、鬼頭莫宏、篠房六郎など、1年以上前のアフタヌーンのような誌面。一方、毎月買うところに至っていないのはなぜだろう、などと思っていた。
でも、この連作集を読むと、なるほど、まだこういう漫画は可能なんだと気付かされた。こうした作品を世に送り出したこと自体に、乾杯したい。
ちなみに「むかし、魔女がいた」という言葉に続いて、見開きで現れる作品集のタイトル。網膜に刺激を与えた時に見えるパターンのようでもあり、刺繍のようでもあり、聖堂の飾りのようでもあり。突飛かもしれないが、「風の谷のナウシカ」冒頭のタペストリーも少し連想して、あの作品が後続世代に与えたイメージの強さも感じたり。「魔女」というタイトルにふさわしい強度。これだけで、作者の気合いがわかる。
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コメント
しつれいしました、誤記を訂正しました。(「リトル・フォレスト」のタイトルを誤記していた…)
投稿: kenken | 2004.05.31 11:26