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2004.08.11

7/24、伶楽舎、雅楽公演

7/24の伶楽舎、雅楽公演(紀尾井ホール)について、だいぶ時間が経ったがメモしておく。

第1部は古典。黄鐘調の管絃として「西王楽 破」と「拾翠楽」。続いて舞楽「散手」。
第2部は新作。西村朗作曲「夢幻の光」(委嘱初演)。
ちなみに、東京の夏音楽祭2004の参加公演であり、西村朗は同音楽祭で中心的な役割を担っている。

第1部の古典は、ハイライトの舞楽がよかった。管絃は管(龍笛、篳篥、笙)が3人ずつだったが、舞楽では5人編成。音量と音質が強靭になったのは、調子の演奏だけでもよくわかった。舞手が入場すると、兜を着けた面に鉾の力強さ、会場の期待が高まる。一見飄々とした動きのようでいて、要所では丹田から力強い気が漲る。すばらしい!
雅な軽みと、鉾を操っての厳かさが同居。場が清められていくようだ。至福。
暑くて疲れたせいか、眠っている人もいましたけど、まぁご愛嬌。聴衆も概ね熱心だった。

第2部の新作。20世紀後半の現代音楽オーケストラのような響きを、ほとんどそのまま雅楽の管絃に持ち込む。オルガンのように響く笙、ピアノのように響く箏、フルートのように響く龍笛(しかも龍笛はかなりの負荷がかかる演目だったのではないだろうか)。
退屈とまで思わないが、しかし、これを雅楽の管絃でやる意義が聴こえてこない。瞑想法を内容構成の発想の大本にしていると、作曲家自身の言葉でプログラムに書かれている。標題は確かにそうだ。しかし、まるで西洋音楽の、バロック合奏協奏曲のような構成(カデンツァ的ソロもある)。
楽器や響きの生理から導かれた音というより、コンセプチュアルな構成が先にあって、それを雅楽の管絃におろしてきたような作曲。いや、作曲者が楽器の生理にあわせるべきだとまでは思わないし、官能によりかかってつまんない曲になるのは凡百の西洋オペラにたくさんある。だけど、先にコンセプトがあって、それを雅楽や西欧近代オケなどに適用するだけというのも、座りが悪い。
新作雅楽には、再演されてきた武満徹の傑作「秋庭歌一具」がある。あのあとの新作雅楽は、あれを意識して力んでいるのかな、と思える瞬間に出会う。今回、それはなかったけど、新しい音に共振する瞬間も感じられなかった。

西洋の古楽器のために書かれた現代の曲も同様だが、単に従来の音楽語法が、新しい音色で響けばいいのではないことは、作曲者ももちろんわかっているのに、結果的にそうなってしまうことは、往々にしてある。そこから「古い楽器は当時の音楽だけを演奏していた方がいい」という意見が出てくることも、よくある。今回も、舞楽はたのしめたから、余計そういう人も出てきそう。
だけど、現代に生きる我々が、古い楽器や、古い音組織の語法を活かしつつ、今の響きを作り出す事は、決して無意味とは思えない。それが、また今現在の楽器や音楽に影響を与え合ったりするのだし。だから、こういう機会は非常に大切だと思うが、その結果がこんな体験というのも悲しい。

こんなこともありますが、新作雅楽、これからも続けていただきたいとは思ったのでした。

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