加賀乙彦「ザビエルとその弟子」その後
今年の群像4月号に掲載された加賀乙彦「ザビエルとその弟子」が単行本になった(講談社)。
ここでも4/21にとりあげた。遅まきながら、ちょっと補足。
4/21の記事では、この作品を読了すると、2000〜2001年にかけて連載された、ザビエルを扱った作品、島田雅彦「フランシスコ・X」を連想させる、と記した。そして、これに対する違和感の表明のような作品に見えた、といった意味のことも書いた。
もちろん、これは私の勝手な連想だ。それに、「違和感の表明」というのは、政治的な意味合いはまったく含んでいない。ザビエルをネタに現代を照射する形をとらず、ザビエル本人に出来るだけ直裁に接しつつ、そこから日本とキリスト教というテーマを扱ってみたい、それが一番大切だし、遠藤周作「沈黙」などから連なる今の日本の小説だろうと、作品で表明しているように見えた。そういったニュアンスだ。それに、氏には名作「高山右近」があるし。
そのすぐ後、新潮6月号の創刊一〇〇周年記念号で、エッセイを書いている。作家陣に出された共通のテーマは「作品が生まれる瞬間」。「小説の座標軸」が加賀氏の執筆記事。
小説を書くのに、人物がきちんと心の中で生きていればおのずから書ける、としていくつかの例を出しつつも、やはり小説を書く際の心得は少しあると続ける。
それは、時の流れという横軸の物語を、それを超越する縦軸が支えているという、小説の座標軸である。
横軸は「歴史という実際の出来事と接触することが多い」といい、人生が20世紀の闘争の歴史と関わってきたこと、そこから小説は時代の証人であるべきだという思いが生まれたこと、学んだ小説がスタンダール、フローベル、トルストイらであることなどに触れている。
そして、縦軸には「絶えず変動し混乱して時代の動きを超越して、人間どものあさましい確執を哀れみながら見据えているもの」という。世阿弥の夢幻能が範であり、新作能を書くのもこうしたところからくるという。
そして、ザビエルを書くためには縦軸がきっちりしている必要があり、「私の小説作法の、一つの帰結、夢幻能形式の小説という発想に辿りついた」という。
この言葉は、新刊の広告でも用いられている。バックナンバーを注文できるし、図書館などでも読めるので、ぜひこのエッセイもどうぞ。
読み終えた後の何ともいえぬ淡い味と手応えの薄さ、それにも関わらずなぜか何度も思い出してしまう不思議を、うまく自分の中で消化できずにいた。こちらのチューニングがまだきっちりあっていなかったという感じ。それは、このエッセイですこしく解けた。
それでも私には、この作品はまだ不思議なままである…いや、不思議という感想は、善し悪しとはまったく関係ない。食い足りないようにさえ見えるのに、記憶に結合して時々吹き出してくる、この小説の立ち姿自体が不思議なのだ。
あ、それが夢幻能なのか…
もしかすると、フランスの作曲家フォレ、晩年の室内楽みたいな作品なのだろうか。淡くて、でも再度触れたくなって、なぜか記憶に残るというのは、フォレ晩年の名作の特徴だ。
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