アフターダークのトラックバックへ
BigBanさん(→記事)、サトウさん(→記事)、トラックバック、ありがとうございます。
特に、サトウさんのトラックバックは、ココログのシステムのせいだと思うんだけど、記事にはトラックバックがあっても、管理画面から見えない妙な状態になっていて、気づくのが遅れました。
なんていまごろお礼を述べているのもどうかと思うんだけど、「アフターダーク」はおそらくこの先につながりのある作品が出てくるだろうし、それから論じられてもいいのかもしれない。
そんなものを単行本として出すのはヘンじゃないか、という意見もあるだろうけど、やっぱり最後まで読ませちゃうのは作者の力だ。
私が今の段階で一番強く感じているのは、読者層に対して、作者が「私は」と直接語りかけられない状態になっていることを、意識していること。
つまり、凡百の作品になりかねないカメラの視点を導入したのは、一人称でも三人称でもない話法のためなんじゃないかということ。これにより、若者を描く際に、少し離れた視点に立った記述が確かなものになる。
加えて、いままでのパラレルワールド指向から踏み出して、メタワールド指向を打ち出せる−−−作品世界を眺める傍観者的視点を露にして何が得られるか、それを追求することが出来ること。読者は作品を安全地帯から素通りする、しかし、単なる素通りに終わらない人々もいる、そういう人々も含めて、より即物的で強度ある表現を目指したんじゃないか。
ただし、そういう作品は少なくなく−−−というより、現代文学で繰り返し試みられてきたことだ。作者はおそらく、人生最大の冒険に出かけるつもりなのかもしれない。それが皆に成功として伝わるかどうかは別にしても。
だから、この一挙両得が成功しているかどうかは、今はおいておく。
現在形でパリパリ進む文体と、「私たち」という言葉に込められた読者の吸引。これをベースに、つつがない生活のあちこちで、ふと口をパックリ開ける瞬間を切り取る。
この作品だけじゃ、弱い。それに、鏡から本人が去った後の、鏡の残像などがまだきちんと動いていない。こういうファクターを放っておくつもりなのかは、次を読まないとわからない。
ただし、ここ数年続いた、深層心理的なテーマから一度離れてみたのは、文学作品としてまっとうではある。それに、都会に住む人々が深夜、作品に記されたのと同じ時間帯に読む時には、かなり活発にイメージが湧いてくると思う。(そういう読み方に寄っかかるのがよいかどうかはまた別にして。)
というわけで、今回はこれくらいにして、次をまた読んでから考えてみたい。
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