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2004.12.20

グーグーだって猫である・2

出たのは2002年の12月。第1巻はすぐに買ったのに、第2巻はなんとなく買いそびれていたら本屋であまり見かけなくなった。そのまま買うのを忘れていて、今年も押し詰まってからやっと買った。
そろそろ新しい巻が出てもおかしくない頃だから、思い出してよかった、と。
(何やってんだか>自分)

前半は作者自身の闘病記。後半は、保護したために増えていく自宅のネコたちの話。
大島弓子氏も、読んで育った人もみんな、おばさん・おじさんになっていくんだなぁ。オレもおじさんだし。
回復されて何よりだった。これが老いることなんだ、みたいなことばが一言も出てこないところがすてき。

ホームレスのおじさんが身近においていた皮膚病の猫を、通院させるといって引き離した。タマと名付けたその猫を暮らしに入れていく過程がすばらしいな。

今年は暑かったから、夏だったのか初秋だったのか、すでに記憶が曖昧な、とある日。
所用のために日比谷公園を突っ切っていた。ホームレスのおじさんが、段ボールを敷いて寛いでいる。脇には木漏れ日の中、洗濯したシャツがハンガーにひるがえっている。
その下に、猫がいた。まだ成猫になりきる前、やんちゃはしなくなってくるくらいの猫。すぐそばには餌皿代わりの小さなカンが用意されている。
瞑目して風をうける姿が哲学者のようなおじさん。その下で猫は、のびのび毛づくろい身づくろいをしてる。
猫は人の近くにいることで安心と食事を確保する。人は猫がネズミをとってくれる上、時々目にする姿を憎からず思う。実は犬より古いペットかもしれない。そんな説をそのまま視覚化したような光景。
大島氏が「公園に向かって一礼した」というコマから、明るい緑の中で時が止まったようなこの光景を思い出した。

第1巻に続いて、楽しく哀しい。いや「哀しい」が少し多めかな。

***

ところで、Amazonの検索結果には、レビューのところに「内容(「MARC」データベースより)」として、以下が掲載されていた。

グーグーをはじめとした猫たちとの生活を通して描かれる、喜怒哀楽や死生観。灌漑深く、心温まり、癒される。『本の旅人』等に掲載されたものを収録。

「灌漑深く」…
もちろん「感慨深く」。
Amazonの担当者が手入力していないとなれば、これがMARCに登録されているわけか…。
いや、人のことはいえませんな、気をつけよう…。

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