文芸誌の11月号〜12月号
忙しさをぬってチミチミ読んだ小説から。
群像11月号、大道珠貴「傷口にはウォッカ」、読み応えあり。
これはなんというか、醜女小説とでもいえばいいのだろうか。そんなの、読み心地はあまりよくないと感じる人がいるかもしれない。主人公は弟に特別な感情を抱いており、それを持て余しつつ、普段はまるで余生のような暮らしだ。ぱっと目を引く人が出てくるわけじゃない。セックスにまつわる話も、気持ちいいものはなく、興奮を誘うものもない。ぶっきらぼう。
でも、大道氏の小説らしく、人間関係の生々しさがある。子供(甥や姪)とのやりとりが、子に媚びず、また子も「わたし」に媚びてこない。中学以来の女友達である万葉との距離感も、少女時代の独特の力関係が鮮やかに立ち現れてくる。子供時代、あるいは少年少女時代の、力関係を満足させるような人間関係は、いい思い出になりにくい。淡々とぶっきらぼうに描くことで、それがちゃんと読物になる。だから大人になって、万葉の子供との交流なども通じて、力以外の何かがにじみ出している様子も見えてくる。
何より、存在感があるのかないのかよくわからない父。この人の暮らしぶりがあって、主人公の「わたし」があるのだなと妙に納得してしまう。
ちなみに、傷口にウォッカをかける比喩が文中に出てくる。それがこの作品イメージの核になっている。そして、セクシュアルなこと、人の関わりを上手にこなそうとはしない主人公の生き方に、響いている。というか、セクシュアルなことは究極の人間関係だし、それが自己実現するようにうまくいっちゃうなんて、悪い意味でのオハナシ。じゃぁ現実って、ナンなのか。大道氏の小説はそこをきちんと書く。
とにかく要約したくない小説。
その群像は12月号でも阿部和重「グランド・フィナーレ」という力作がある。
神町を舞台にしたこの作品は要約すれば、東京で教育用映画を撮っていた男が娘から引き離されたのは自業自得だったが、それを償う機会がこの神町で与えられる、ということになってしまう。
だけど、「ニッポニア・ニッポン」でトキ・センターを襲った男の家人が、この町から出て行かなければならない、というところがミソ。あの悲しい話を読み、引きこもりの男が成したことへの関わりを思うと、作家はあえて償いという陳腐なテーマを取り上げて、責任ということ、今の日本をどうするのか、ということを視野に据えていることがわかる。
後半の座りがちょっとよくないような気もしているが、神町を舞台にした大長編「シンセミア」をまだ読んでいないので、なんともいえない面もある。
とにかくこれも読み応えじゅうぶん。
群像12月号は岡崎祥久「ナラズモノの唄」も読ませるし、文學界12月号は福永信「座長と道化の登場」もちぐはぐな会話が妙にドキドキする。
だけど、もっと妙なのは文學界12月号に掲載された石丸元章「地下生活者たち」だろうな。
この一見フザケた、しかし小気味のいい文は、21世紀の高橋源一郎とでもいうのか? 随所に有名な作品の名が横溢する。おもしろいんだけど、正直にいえば「さよならギャングたち」「さようなら、ギャングたち」ほどの衝撃はなかった。
でも、今、これをやる意義はあると思うな。
そういえば、新潮の10月号に載った石丸氏の「extasis(エクスタシス)」、読んでいなかった。時間を見つけて読んでみようか。
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