もったいないことをしていた
先日、桂芳久氏の授業中に、リルケなどを読んでいた、と書いた。
実験その他の必修で1週間のかなりが埋まり、文学や美学の授業をとることが難しい中、必修に埋められないで済んだ数少ない講義の一つだった。
桂氏は静けさに委ねるように語り、時々言葉が炸裂するとすぐ、静けさに戻る…期待してとった割には、時々すご〜く眠くなる。静かな時間が子守歌にならないように、詩集に目を通しながら少しだけの緊張を保つ努力。
ただ、声が大きくなる−−−荒ぶる魂が時折息吹を感じさせる−−−際に発する力に凄みがあって、これを浴びるのは結構好きだった。
講義のテーマは「小説(novel)はなぜ新しい(nova)のか」。
テーマに沿って語っているというより、氏の考える小説の出来の基準について語る時間が多く、たまに文学研究先達(たとえば折口信夫ら)や交流のある作家(もちろん三島を含む)について触れる。多くの学生は「おもしろいかもしれないけど、なんでこんなことばかりしゃべってるの?」と思っていたように記憶している。
しかし、いま思えば、とても重要なことを語っていたのだ。芸術や芸事を考える際に、先達が語る好悪や善悪の基準ほどおもしろいことはない。高橋睦郎氏の語った三島由紀夫の話もそうだったように。しかも、新たな視点を開くきっかけにもなることもある。
それを進んで開示してくれるなんて、実はものすごく恵まれた機会だったのだ。
年末の試験問題は1行。
「小説(novel)はなぜ新しい(nova)のか、君の考えを述べよ」
頭上に、全員から発せられた「どうすりゃい〜んだ」が漂い続けたいたことを、よく覚えている。
私は、人間が言語を獲得する過程から推論して、言語が心理的印象を形成する要因を書いた。そして、心は感覚につかまれて言語に支えられなければ形をとれず、しかも不定形であることは苦しく感じられるので、感覚を言葉にしてなんとか形を作ろうとする。であるにも関わらず、感覚自体が常にうつろい、それを言葉として常に新しく記述し続けなければならない。心の形を維持するためにも物語を捨てることは決してできず、それゆえ小説は常に新しい印象を生み出さざるを得ない、これは種としての特性である、といった意味の結論を書いたように記憶している。
評価は良かった。稚拙ながらもお茶を濁さずに、まっとうに答えを書こうとしたからだったのかもしれない。
しかし、その後は卒業準備に追い立てられ、ろくに続きを考えることもないまま、大学を離れた。
卒業して3年以上経った頃、読書の時間が減ることに抗うように、本をもっと読もうと決意した。それからさらに数年、時々ふっと講義の言葉がよみがえるようで、しかし、記憶は既に曖昧であり、どこまでが講義で聞いたことかわからない。
桂氏は今年2月、逝去された(YOMIURI ONLIEの記事、2/9)。
私は一度も直接言葉を交わさなかった。講義中の読書は失礼なことだったと思うし、またもったいないことをした。バカである。
遅ればせながら。
黙祷。
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コメント
もったいないという言葉をつくづく最近感じます。
学生の時より今の方がよほど本も読むし、時間がもったいないと思うのです。
遅くなりましたが。
眞鍋さんの記事のTBありがとうございます。
身近な話だから人気あるのでしょう。
投稿: | 2005.06.10 08:34
管理人のkenkenです、コメントありがとうございました、
&トラックバックがすごく遅くなってすみませんでした。
それにしても、働くようになってからのほうが、本や知識に触れたいと
思うものですよね。
これからもよろしくお願いします。
投稿: kenken | 2005.06.10 22:36