一番よく手に取るマンガは
8月。たまった文芸誌の拾い読みをしたり。
先月の文學界「鳥の目・虫の目」に書かれたことが目に留まった。このブログで7/23に起こした記事よりも直接的。むー、先を越されていたのか。
と思ったり。
だけど、8月前半の読書の中心は、ジュリアン・ジェインズ著「神々の沈黙」だった。
1970年代に刊行され、1980年代に増補されたこの書物は、当時の心理学と脳科学の先端的な知識を視野に入れつつ、古代と現代の心の違いを野心的に語ったものだ(著者は有名な心理学者)。
欧米でたいへん話題になりながら、長らく日本語訳がなかった。個人的にもあまりの厚さに、原書は放置していた一冊。
読んでみると、一見トンデモ本に思えるが、当時の心理学や大脳生理学の知識から得られる推論に、極度の無理はない(推論なので飛躍はある)。むしろ、心理学を専攻したことがない人は、意識・知覚・認知といった術語の意味を適切にくみ取れず、読み通すのに苦労するかもしれない。
扱う範囲が大変広く、簡単にコメントしにくい。それに、近年の研究との比較照合が必要な内容でもある。池谷氏のような気鋭の学者が、心理学や言語学・文学などの学者と対談する、というような企画でやってくれないかしら。
重めですぐにエントリーを起こせないが、これはこれでいつか当ブログでも取り上げたい内容だ。
もうちょっと軽い話題をば。
ここ10年ほどで、一番よく手に取るマンガはなにかっつー話。
よくよく思い起こしてみると、私がもっとも頻繁に手に取るのは、久住昌之・原作、谷口ジロー作画「孤独のグルメ」(扶桑社)だろう。
平成6年(1994年)から平成8年(1996年)に月刊PANjAに連載され、1997年に単行本化されている。さらに2000年、文庫になり、どちらも版を重ねている。(本屋でもAmazonでも、どちらも手に入るはずです。)
私が持っているのは最初に刊行された大判コミック。
この本、手に取ってジーッと読み耽るわけではない。ちょっと読むと、置く。しかし、1週間に一度程度は手に取っていると思う。
内容は、個人で雑貨の貿易業を営む井の頭五郎が、業務の合間や、出張先で、一人で飯を食うエピソード。
全編これだけ。
だが、これがものすごくいいのだ。
現実に存在する店に取材している。行ったことがあれば「あ、あそこだ」とわかる。それらに、いわゆる名店はない。正確にいえば、名店はあるにはあるが、情報誌で特集されまくるタイプの店はない。
代わりに、圧倒的なリアリティがあり、それに支えられて中年男の自由が立ち上がってくる。
一人で業務を営んでいると(いや、サラリーマンでも極度に忙しいベンチャー企業で働いていると)、定時の飯に食いっぱぐれたりする。中途半端な時間に、自分をなだめるようにして食べる。
また、客から聞いた情報で、浅草の甘味処に一人で入ってみる。
また、出張先で微妙にズレた歯車を一人でかみしめながら食べる。
かと思えば、石神井公園のお茶屋に寄って、ジュースとおでんというとんでもない組み合わせになってみたり。
こういう飯の話の何がおもしろいのか。
おもしろいわけじゃないが、はっきりしていることが一つある。
世間のしがらみも、人との関係も気にせず、一人で決めて、一人で入り、一人で食って、店を出て行く。
自由であるとは、徹底的に孤独である、という当たり前のことがサラリと描かれている。
徹底的に卑近な話しか出てこないからこそ実現できた、食べる哲人。
いや、そりゃおおげさだな。
でも、そういいたくなるマンガなのだ。
刊行当時に話題になり、今でも版を重ねているのもうなずける。
私が好きなエピソードは第12話「東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ」。
入った洋食屋の主人が、バイトで雇っている中国人留学生を徹底的にいためつけながら営業しているのを見て、立腹してしまう。この時の井の頭五郎のセリフは、ちょっと語りすぎのきらいがあったとしても、本音であることは間違いない。
この話、現在なら成立しないだろう。もう10年もたつと、そんな時代が本当にあったのかといわれるかもしれない。
ちなみに、ここに出てくる秋葉原のスポーツ広場(第17話)はもうなくなり、いまや巨大な高層ビル群が古い電気街を見下ろしている。
また、第18話に出てくる渋谷百軒街、ストリップ劇場の向かいのラーメン屋はまだあるが、ストリップ劇場はいまやカフェになっている。
谷口ジロー氏の細やかな絵は、街の記憶を留めてすばらしい。
それだけに、可能ならば文庫ではなく、最初の単行本で読んだほうがいい。圧縮された絵では見えてこない細密さがある。
いやはや、やっぱり名作だ。
最後に勝手な希望をいうなら。
2010年あたりに、井の頭五郎が何をして、何を食ってるかを読んでみたい。
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