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2005.10.28

18世紀の悦びが今にこぼれる

[テレマン作曲:フルートとリコーダーのための協奏曲 ホ短調]

テレマンは在世中、ヨーロッパ随一の名声を誇った作曲家だった。同時代のドイツ出身の作曲家にはヘンデルやJ.S.バッハがいるが、比べ物にならないくらいの人気だったという。しかし、彼らは時代の変化とともにほとんど忘れられ、一部の音楽家や愛好家の間で細々と受け継がれていた。
モーツァルトは「古楽」愛好家の男爵が集めた楽譜でバッハやヘンデルを改めて知った。これは交響曲第41番に結実する。
ベートーヴェンの場合、先生がバッハの系譜に属しており、教育に採り入れた。これは素晴らしい歴史の偶然で、ベートーヴェンは曲に厚みを持たせる際に、対位法を採り入れることになる。交響曲第9番に至っては、パレストリーナの楽譜まで参照して作曲している。パレストリーナはイタリア・ルネッサンスとバロックの狭間に位置する巨匠だ。バッハ以前の音楽に至る系譜がなんとか記憶にあった、最後の世代とも言える。
しかし、一般には18世紀までの作曲家は、19世紀に入ってほぼ忘れられた。(モーツァルトだってそういう面がある!)

再発見は19世紀の作曲家、メンデルスゾーンだった。早熟な彼はバッハの鍵盤音楽を好んで弾いていたが、マタイ受難曲の楽譜を入手すると、万難を排して再演にこぎつけた。
これは(新聞などの宣伝もあり)歴史的な成功を収めた。さらに1850年、バッハをドイツ音楽の根っこに位置づけようという人々が中心になって、バッハ協会を設立する。シューマンやリストを含む有名な音楽家達は、ことバッハに関してはお互いに協力し、楽譜の全集が出版される運びになった(この楽譜は文献学的な研究が進んだ20世紀に入って抜本的に改訂され、新全集としてベーレンライターから出版されている)。

ん? バッハだけ?
ベートーヴェンの第9を生んだ深遠なドイツ音楽、その系譜に連なることを欲する人々(ワーグナーもシューマンもブラームスも例外ではない)にとって、ヨハン・セバスチャン・バッハの響きこそがその土台に映ったのだろう。
そうはいっても、博物館が設立され、博物学や歴史の研究が本格的に始まった19世紀後半のことだ。20世紀が見えてくれば、バッハ研究を土台にして古い音楽も整理していく動きが出てくる。イギリスで大作曲家になったヘンデルは幸いに忘れられるところまではいかなかったが、決して頻繁に演奏されていたわけではない。むしろ20世紀に入ってから思い出されていった。
他の作曲家も同様。

***

そんな中、在世中には「ドイツ音楽の父」J.S.バッハより有名だった作曲家、テレマンも再発見される。
実際に聴いてみるとどうだろう。
わかりやすい旋律、軽い響き。典雅で快活で、ただただ楽しい…バッハに深遠さを求める耳にとっては、娯楽音楽にしか聞こえない。なかなか日の目を見なかった。
20世紀後半に至るまでなかなか演奏される機会がなかったのは、やはり現代のホールでたっぷりした響きを求める聴衆に合わなかったからだろう。
レコードやCDを買い求めて音楽を聴く。この行為が定着する頃になって、ヴィヴァルディやテレマンは本当の意味でその居場所を再発見されていく。

たとえば。
長時間の仕事に疲れて帰り、やっと着替えて、一息つく。
そういう時、人生の晦渋に満ちた表情の音楽だけに取り囲まれていたいだろうか。かといって、テレビ番組でただ時間を埋めるのも哀しい。
そんなとき、疲れた神経を、典雅でセンスのいい、そう長くない曲で中和させる。
そして、少し時間があれば、しっかりした音楽を聴く。
そんな聴き方を好む人がいても、おかしくない。
おそらくヴィヴァルディやテレマンは、そういう場所にはまることで見出されていった。やがて古楽復興の波に乗って、多くの作曲家が真摯に再興されるようになっていく。
(私個人は、古楽復興とはアヴァンギャルドな側面も強かったと思っている。一方、こういう受け取られ方も許容したからこそ、広がったのだとも思っている。)

***

18世紀のドイツは、百年戦争の傷が癒えつつあり、音楽を楽しむ富裕層が出現しつつあった。教会と都市の音楽監督を務めるテレマンは、達者なアマチュアでも楽しめる曲集を多数出版した。高い名声にものをいわせて、予約出版という形態を開発するところが、商売上手で御茶目な人柄を表している、ともいえるか。
予約出版の頂点は、貴族の夜会で演奏するのにちょうどよい音楽集「食卓の音楽(ターフェルムジーク)」だろう。管弦楽によるフランス風組曲、四重奏曲、協奏曲、トリオ(三重奏曲)、ソロソナタ、再び管弦楽による終曲。これだけの曲を詰め込んで、しかも3セットあり、すべて楽器編成が異なる。
18世紀の中葉に普及していた音楽形式とソロ楽器をほぼ網羅した、当時の音楽見本市のような曲集だ。ヘンデルやバッハら当時の有名音楽達もこぞって予約購入した。

テレマンは当時すでに時代遅れになりつつあった対位法だけに基づく音楽から、より典雅でよく歌う旋律を指向していた。バッハはあえてその逆に向かったため、テレマンに名声は及ばなかった。ちなみに、歌う音楽は彼の死後、モーツァルトで大成する。
その一方で、流行りの単純な旋律を歌わせるだけでは、すぐに飽きてしまうことにも気付いていた。教会音楽の書き手としても有能だった彼は、対位法に基づく手法で、響きに陰影と彫りを与えた。ベートーヴェンを思わせる…ようだが、ベートーヴェンがとった手法は似て非なるもの。ただ、着眼点は似ている。
また、ハンガリー舞曲に代表される土俗的な響きも採り入れた。これはハイドンの頃まで続く流行となる。
時代の寵児だった彼は、彼以前の音楽と、今の音楽との間で最良のバランスを保っていた。それだけに、死後急速に忘れられていった。時代はエマニュエル・バッハ(J.S.バッハの息子)やシュターミッツらの疾風怒涛様式、ハイドンの堅牢で清潔な交響曲、そしてモーツァルトへと変わっていった。
しかし、彼のとった手法は、後の音楽家を予見するような部分をたくさん含んでいた。

いや、そんなゴタクがどうでもよくなるくらい、テレマンの音楽は楽しい。彼の本領は、品のよい短い旋律を、手を替え品を変え繰り出していく中で、音の動きがいつでも悦びに満ちていることだ。
その手法がもっとも輝くのは、トリオ・ソナタと、二重協奏曲だろう。
トリオ・ソナタとは、2本のソロ楽器が、通奏低音とともに渡り合う音楽。
二重協奏曲とは、2本のソロ楽器が、弦楽合奏とともに渡り合う音楽。
どちらも、ソロが2本で対話を繰り広げる。そして、通奏低音や弦楽合奏とは、伴奏してもらったり、ソロが伴奏にまわってみたり、一緒に奏したりする。2本のソロを軸に楽しい音の会話を紡ぐ響きはとても人懐こい。
単なるソロよりも、語り手との対話があってこそ活きる彼の音楽は、やっと安定した当時のドイツ社会の空気を伝えるところがある。第2次大戦後の人々に見出されたのも、道理だったのかもしれない。

***

そんな楽しさは、たとえば、リコーダーとフルートをソロに持つホ短調の協奏曲。
すでに歴史の表舞台から引退寸前のリコーダーと、管楽器の主役の座を射止めつつあったフルートが、まさにクロスした瞬間でしか生まれない音楽だ。

弦楽器のしっかりした和音の中から、ソロがひそやかに旋律を酌み交わしていく第1楽章。
対位法的な陰影に彩られたアレグロの旋律を、合奏とソロが交互に繰り返していくうちに、あっという間に終わってしまう第2楽章。
一転してホ長調になり、穏やかに会話をする第3楽章。
再びホ短調に戻ると、ハンガリー調の旋律とリズムが快速に進む第4楽章。ヴィヴァルディに代表されるリトルネッロ形式に則って、合奏によるテーマと、2本のソロが交互に進む。民俗調の中にもどこか上品さがあるこの楽章は、まさにテレマンらしい。
ホ短調という調性が醸し出す雰囲気もすてきだ。どこか凛として、テレマンの書く上品な旋律によく合う。

歴史を画する名曲というわけではない。
しかし、ある時代に爛熟したセンスが、いっぱい詰まった曲であることは、間違いない。そういう曲を慈しむのもまた楽しい。
BGMとしても、耳を傾けても、楽しめる。もともとそういう造りの曲なのだ。

***

そして、意外に名演奏が少ない曲でもある。
長らくフランス・ブリュッヘン(リコーダー)とフランツ・フェスター(フルート)が吹く、モダン楽器の演奏がよく聞かれていた。
ブリュッヘンは最初に現代のリコーダーで演奏を始めるが、博物館に眠る歴史的な楽器と、そのコピー楽器による演奏で、演奏の革命を行う。アーノンクールやレオンハルトらとともに一世を風靡した、いわゆる「古楽器」時代の幕開けだ。
この曲は1960年代にモダン楽器で録音したが、古楽器の演奏による再録音はされなかった。1981年にリコーダー/フルート奏者を引退すると、すぐに18世紀オーケストラを組織、古楽器オーケストラによるハイドンやベートーヴェンの名演奏に軸足を移した。こちらでも目覚ましい活躍をしているのは、周知の通り。
ブリュッヘン引退後の1986年、ドイツの古楽器アンサンブル、ムジカ・アンティカ・ケルンの名演奏が出た。今でもCDで発売されている。切れ味のよい弦楽器、達者なソロが揃って、実に表情豊かだ。特に第4楽章はリズム、音色ともに民族情緒たっぷり。

しかし、一つどうしても気になること。
18世紀オーケストラの立ち上げ公演は、まだブリュッヘンが笛吹きである記憶が濃厚だったため、ファン・サービスとして、この曲を演奏していたという。(1980年代の季刊リコーダーに、共演された有田正広氏の寄稿があった。)
ブリュッヘンにとってはいまさらではあるだろうが(「もうテレマンはたくさんだ!」と言って指揮者に転向したのだから)、この頃の録音があるならば、聴いてみたいものだ。
それは一人の天才がリコーダーという楽器を塗り替えていった時代の、最後の記録だろうし。

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