ハルキの月だけど
4月7日に発売された文芸誌5月号のうち、文學界は沼野充義「ルポルタージュ ロシアの村上春樹」、新潮はリチャード・パワーズ(柴田元幸訳)「ハルキ・ムラカミ−広域分散−自己鏡像化−地下世界−ニューロサイエンス流−魂シェアリング・ピクチャーショー」。
後者は国際交流基金が今年3月25〜29日に開いた国際シンポジウム「春樹をめぐる冒険−−世界は村上春樹をどう読むか」における、リチャード・パワーズの基調講演原稿の完全版というもの。毎日や朝日などが文化欄でちょっとだけ触れてたけど、完全版の原稿が載るとは、太っ腹。作家パワーズが何を語っているか気になるが、落ち着いてページをめくる暇、なし。
文學界ではもうひとつ、1ページのコラム、相馬悠々「鳥の眼・虫の眼」が「原稿流出問題の警鐘」と題して村上春樹・生原稿流出問題を扱っている。
3年も前に坪内祐三がコラムで扱っていた(en-taxi)のに、新聞など諸マスコミがどこも扱わず、村上春樹氏本人が書いた途端に大騒ぎするのは「やれやれ」だ、しかし本当に警鐘を鳴らされるべきは3年も扱ってこなかった文芸ジャーナリズムの側だろう、あの文藝春秋の文章は書く側だって読まされる側だってつらい、という趣旨。
村上春樹氏の文には職業上の「モラル」という言葉があり、逆に「作家からモラルなんて言葉を聞こうとは…」などという感想も耳にしたりする。まぁ作家はモラルから遠い存在だ、なんでもアリだから作家だろう、という言葉はさておき。
モラル、というよりも、心意気、と言ったほうがいいんじゃないかな(単なる言い換えではないよ)。
それはともかく、まぁなんか今月は珍しく「ハルキの月」。
ちなみに、群像連載中の橋本治「院政の日本人」は今月で第4回。
やっと単行本になった「権力の日本人」(現連載の前編)のページ数と活字の密度を見ると「こんなに連載で読んでたっけ、すげぇ長さだな」と思うけど、それを含めて「院政の日本人」第3回まででやっと、ある程度の前提を語り終えたというわけ。今月から本論展開ということで、「院政の時代に至って初めて、天皇における父と子の対立が出てくる、それ以前は父なる天皇を見て育つことはなかったじゃないか」というもの。
日本という国における物事を決定する時の進め方、最高意思決定機関の持ち方、そこから現代に至る会社という組織のあり方や個人の意識のあり方まで含めて、意識しにくい規範がどう出来てきたのかを考える、その考える過程が言葉になっているような連載だから、まぁ長い。長いけど、退屈はしない、おもしろい。
もっとも氏のことなので、またどこかで寄り道して踏み込んでいくかもしれず、それも含めて楽しみということで。
あと、15本の短編を一挙掲載。
群像は文學界で庄野潤三「ワシントンのうた」も読む。すぐ読めるからだけど、それ以上に氏の作品は不思議に心に残る。
[追記]なにを血迷っていたんだろう、庄野潤三「ワシントンのうた」は文學界の連載です! お詫びして訂正します。
文學界2月号は小林信彦「うらなり」が掲載されていた。夏目漱石「坊っちゃん」を、うらなりからの視点で描くもの。時を昭和9年に設定し、銀座でビールを飲みながら昔話をする「うらなり」の声。さすがに読ませると思っていたものの、「坊っちゃん」を読み返そうかと思って、やり損ねたまま。
と思っていたら、今月には「うらなり 創作ノート」が出ている。未読だが、これはまた猛烈に気になる。
ちなみに、湯本香樹実「珊瑚の指輪」も掲載。
なんか読書予定メモみたいになってきたけど、身動きがとりにくいスケジュールだし、せいぜい時間を作って読もう>自分
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