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2006.05.31

自然な表情

先日のパーヴォ・ヤルヴィに限らず、ピリオド奏法による響きの設計は、楽しく聴く人もいれば、まったく受け付けない人もいる。
好みは人それぞれであるし、嫌いになる人がいるのも当然のことだ。キュウリが大嫌いな人に「瓜の仲間なんだぞ、スイカと同じだと思って食ってみろ!」と言ったところで仕方ないのと同じ。

古楽器オケやピリオド奏法を私は楽しむが、嫌いという人に無理矢理押し付けようとは思わない。普通に演奏される現代のオーケストラ演奏にあまり不満らしい不満がなければ、あえてそういう演奏を聴いたりしないだろう。

ただし、古楽器やピリオド奏法を使うことは、正統的な演奏であるかのように喧伝されやすい。これは「そういう演奏だからといって正統的とは限らない、だって多くの人は普通に伝承されてきた演奏を聴いている、ひねり出した演奏のほうが不自然だ」という反論を呼び出してしまう。
さらに「楽器の発展に従ってよりよい音で演奏するように進歩してきたのに、あえて戻す理由があるの?」とか「今の楽器でさらに進歩していけばいいんじゃない? 当時の音を聴くことなんか、できないんだよ?」なんて疑問も出てくるだろう。

こんなことは1960年代から散々議論されてきた。1990年代以降は若手の演奏家が先入観なく古楽と現代の演奏法を行き来するようになっており、古楽器 vs 現代楽器などとうるさく言わなくても、単に聴いて面白いかどうかを判断する人々が増えてきた。もはやあえて書くことではないのかもしれないが、たまたま買ってみたCDが古楽器やピリオド奏法による録音であることが増えてきた今、自分なりのメモを残してみたいと思う。

***

古楽器やピリオド奏法を使う多くの演奏家や指揮者らも、当時の響きをまったくそのまま再現している、と思うのはむしろ少数派なんじゃなかろうか。
たとえばいくら当時の楽器を使ってみても、経年変化が生じている。また、その当時の楽器製作の哲学を学んで、同じような精神で作ってみた楽器であっても、作曲当時と同じ音がするとは限らない(だいたい木材なども昔とは違うだろう)。それに、演奏習慣は楽譜や文献に残らない部分が多いから、多少残っている文献や楽譜上の指示を参照しても限界がある。
古楽器やピリオド奏法を考える背景はおそらく、19世紀以降に広まった演奏習慣や考え方から一度離れて、作曲者の頭に響いた音を洗い直すことで、現在の演奏者の思い込みを解放する効果が一番大きいと思う。そんな演奏から、聴く側も新鮮な気持ちで楽しめる、ということが大切なはずだ。

ベートーヴェンは確かに長く演奏されてはきたが、それは19世紀の巨人、ワーグナーによるベートーヴェン像が提示されたことも関係している。ワーグナーは自分の創作の位置を考える際に、ベートーヴェンに至る交響曲の発展を眺め、第9番でついに声楽が導入されたことをもって、交響曲の完成と新展開の要請を考えた。もちろんそれは楽劇の創始だ。
他の作曲家はどうなのか。たとえば、モーツァルトはオペラ以外はあまり演奏されなかった時期があり、バッハに至ってはメンデルスゾーンが見出すまでほぼ演奏されなかった。(もちろん作曲家や作家など19世紀の文化人達は、フンメルやベートーヴェンらを通じてモーツァルトも知っていたし、影響は受けている。)
いや、オーケストラというものが今のような編成をとるようになったのはやっとモーツァルト〜ベートーヴェンの頃である。

ベートーヴェンの頃までは、ホールや教会だけでなく、王や貴族の邸宅で演奏会が開かれることも多かった。フランス革命以後、市民と公共施設という概念が広まってから一般の人々(とはいえブルジョワやプチブル)が演奏会に行く機会が増えた。王宮はなくなったが、ブルジョワや貴族が形成する社交界があり、そこで演奏されることも多かった(ショパンのサロンでの人気は周知の通り)。
演奏会にかかるのは多くの場合、新作。その作曲者の書いた旧作もかかる。古い作曲家の作品は、忘れられていくことも少なくなかった(好事家が収集する楽譜や楽器があり、それを使った演奏はたまにあったようだ)。在世中に成功を重ね、後代から参照されることの多かったベートーヴェンはむしろ例外に近い。

19世紀半ばは世界史という概念が出てきた時代だった。19世紀を頂点とする歴史の記述において、その直前の偉大な作曲家だったベートーヴェンは、ウィーンを中心に栄える19世紀ドイツ音楽を切り開いた人として、たいそう尊敬されることになる。それ以前の作曲家は、ベートーヴェンやワーグナーら(もしくはブラームスら)に至る道筋としてとらえられるような意識も起きてくる。そこで「音楽の父、バッハ」という捉え方も出てくる。(ベートーヴェンのピアノの先生は、当時時代遅れだったバッハや対位法音楽を学ばせた。これが音楽に深みを与えたのは有名だ。)
ウィーン・フィルの最初の定期演奏会が1860年である。そして、演奏会に人を集める曲として、ウィーンに根ざしたベートーヴェン以降の曲がたくさん取り上げられるようになる(他の国でも自らの都市のオーケストラを誇りにするようになる)。フランスのオペラ人気からモーツァルトも復興していき、それ以前の音楽も多く取り上げられるようになってくる。
こうして、今のクラシック音楽文化の原型が形成される。

***

つややかな弦楽器と木管楽器、輝かしい金管楽器。これらが積み重なる深々とした響き、そこから立ち上がる雄大なクレッシェンドは、19世紀後半からの特徴だろう。高潔な精神性というベートーヴェンのイメージは、ワーグナーのベートーヴェン観に、こうした19世紀的な感性が多分にトッピングされている。
トスカニーニやカラヤンはそこを揺り動かしてモダンな響きにする面があったが、この二人はそもそもワーグナーが得意である。20世紀的なベートーヴェン像は、クレンペラーあたりのクールで熱い演奏のほうが面白い。
そもそも大オーケストラでは、木管楽器の微妙な動きが、弦楽器に覆われて聴こえにくくなる。それに、金管楽器も含めて響きが深々としているが、動きは鈍くなりがちだ。実際、ベートーヴェンのメトロノーム指定は速すぎるとして、多くの作曲家がよりゆったりしたテンポで取り組んできた。

しかし、ベートーヴェンは18世紀に生を受け、その音を聴いて育った。そして、そこから巣立ち、自分の耳を頼りに新しい音を切り開こうとした。
そういう男の響きを洗い直すには、18世紀以前の音楽(響き)も踏まえることが重要だろうし、むしろそのほうが現代の人々にとって新鮮で(誤解をおそれずに言えばアヴァンギャルドに)響く。

ピリオド奏法によるベートーヴェンは、音量の増減が極端で、ギアを変えるたびにガクガクいう車の運転みたいで、不自然に聴こえるかもしれない。硬いトランペットやティンパニの音は、耳障りかもしれない。ひょーんとヴィブラートのない弦楽器の音は、頼りないかもしれない。
でも、すっきりした弦楽器の音だから、きっちりと和音が合う。その背後に動く低音や木管楽器の動きが、手に取るようにクリアに聴こえる。より楽譜に忠実に響く。
響きは実は、それまで聴いてきた音の慣れや習慣にかなり左右される。最初は不自然に聴こえるかもしれないピリオド奏法も、音の法則はきちんと踏まえている。不自然に聴こえるとすればむしろ、自然な表情の中にきらりと光る効果を生み出した、ベートーヴェンの前衛性だ。
本当に真摯に追求した響きであれば、次第に心を動かされる人が増えてくる。そこから、顔はいかついがユーモアある一人の男の顔も見えてくる。
(そのような部分を強調した演奏は嫌いだ、という人がいてもおかしくないのも、当然ではある。)

さらにピリオド奏法によるモーツァルトと比べてみれば、第3番、あるいは第8番あたりがいかに前衛的だったかも聴こえてくる。そのモーツァルトにしたところで、コジェルフやサリエリら同時代人と比べれば、いかに前衛的だったことか。
その前衛性が、多くの人の胸を打つ普遍性とともに今を照射するからこそ、何度も聴きたくなるんじゃなかろうか。

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とはいえ、理屈よりも、まず耳で楽しむ。それ以上でもそれ以下でもないんだけれどね。

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