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2006.06.04

古い音楽を何度も聴いてしまう理由

5月30日に書いた「パーヴォ・ヤルヴィの来日公演への雑感」で、古楽器オーケストラと、ピリオド奏法による現代楽器オーケストラを、私は区別していると書いた。
ただし、先日のパーヴォ・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィル・ブレーメンに見られる演奏上の特徴は、古楽器のみを用いたオーケストラとあまり変わらないかもしれない。
にもかかわらず、古楽器と、ピリオド奏法の現代楽器はまったく響きが異なる。最近は一般的になりつつあることだが、念のためにまとめてみる。

  • 現代の弦楽器は弦の張力が高いため、ハリと艶があるし、音量も大きい。古楽器ではガット弦をゆったり響かせるため、つややかとはいかないが、音色の変化も豊か。
  • 弓の形が異なるし、重心の位置も異なる。古い弓はスピッカートがやりやすく、現代の弓はレガートがより容易、と聞く。(もちろん、演奏家はどの表現も出来るように訓練しているが、古い弓で弾けばスピッカート的な奏法が容易になるため、古典派の短いフレーズを弾きやすい、という。)
  • 木管楽器は音色がまったく異なる。現代楽器はやはりつややかで大音量。古楽器はテンションが低く音量が小さめだが、タンギングがはっきり出やすく、細かいニュアンスを扱える。指使い(クロス・フィンガリング)の関係から、鳴らしにくい調性があり、音が曇り気味になる(それを味とする表現になる)。
  • 金管楽器は、現代楽器はすべての音階をなめらかに吹ける。古楽器はピストンがなく、自然に吹ける倍音は明るい音色であっても、派生する音はくぐもった音色になる(それを味とする表現になる)。
  • ティンパニは、特にバチが大きな違いを生む。現代楽器はフェルト(もしくは布など)をまいた柔らかく深みのある音。古楽器では木のバチを用いるため、硬く轟く。(また、古いティンパニはもちろんペダルなどなく、いっぺんに音程を変えることは出来ない。もっともこれは20世紀以降の音楽を演奏するのでなければ大きな問題にはならないだろう。)

古楽器だけによるオーケストラは、上記のような楽器の特性により、渋めの響きになる。だが、バロックや古典派の音楽にみられる細かい動きに向き、響きは軽やかで明解になる。また、音色の強弱が極端になるため、スフォルツァンドでの驚き、トゥッティの音色の濃さは独特だ。この音色の変化の極端さ、古い弓によるフレーズの歯切れよさを思うと、決してなめらかとは言い兼ねる古楽器による演奏だからこそ、たいへんすてきな味が出てくる。
結果的に、ささやくようなピアニッシモ、音量がなくても妙に破壊力あるフォルティッシモの独特さが生まれる。この部分は現代楽器では出しにくい。
また、楽器の持つ生理から、扱いやすい奏法が見えてくる。それをベースに当時の教則本などを紐解くうちに、このような弾き方・吹き方だったのではないかと思い至るようになる。
たとえば、ヴィブラートは効果として使い、常用しない(もっとも、奏者や地域によって、当時から違っていた可能性も否定はできないだろうが、現代に残る記録を考慮に入れればそうなる)。このような、その時代に常識とされていたであろう奏法(ピリオド奏法)が、比較的簡単にものになるのも古楽器の特徴だ。
ブリュッヘンの振る18世紀オーケストラ、ガーディナーの振るオルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクあたりは、その面白い例だ。(たとえば第9番の第3楽章で、クラリネットとヴィオラが重なって奏でる音のしなやかさ。宗教的ともいえるその響きは、古楽器の独擅場だろう。)

現代楽器のオーケストラでピリオド奏法を行う際には、こうした古楽器の響きを考慮に入れつつ、フレッシュな演奏法を開拓することになる。
指揮者と団員が共通の意識を持ち、編成やバランスにも気を配ることで、現代楽器の音量や響きの豊かさをスポイルせずに、機動性も活かしたメリハリある演奏にできる。
単に古楽器的な表現を真似て、単に音やフレーズを短くとったり、響きをゴツゴツさせるのは聴きづらいだけだ。楽器の特性が異なるのだから、古楽器の持つ響かせ方、聴こえ方を消化した上で、その楽団なりの味にしないと意味がない。
そのいい先例がロジャー・ノリントンの振るシュツットガルト交響楽団、またアーノンクールであり、また今回のパーヴォ・ヤルヴィだろう。彼らは背後にとても論理的な部分を持ちつつ、振幅の大きな表現をする。

当たり前だが最終的に大事なのは、楽器じゃなくて、指揮者や演奏者のイメージする音楽がちゃんと形になっているか、表現として徹底しているかということ。
たとえばノリントンが振ると、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(古楽器)を聴いても、シュツットガルト交響楽団(現代楽器)を聴いても、どちらもすばらしい。
同じようにすばらしいのではない。響きは異なるし、録音時期も異なるから曲への向かい方も違う。だがノリントン節の筋は通っている。全体像を示す指揮者からのイメージが団員に徹底されており、指揮者がその楽団を前にして望む響きが随時引き出されていくからだろう。

***

ベートーヴェンは実に様々な捉え方が可能なためか、現代楽器による様々な演奏、古楽器による演奏のどちらであっても、芯が通っていれば豊かに楽しむことができる。モーツァルトも同様。

一方、古楽器のほうが圧倒的におもしろいと感じるのは、ハイドンだ。
正直に告白すれば、長らくハイドンのよさを心底感じてこなかったと思う。それがわかったのは、ブリュッヘンが18世紀オーケストラを率いた最初の来日公演で、ハイドンをやった時だ。ロンドン交響曲のような最後期に入る前の曲を取り上げていたが、終わってほしくないと思うほどハイドンが楽しかったのは、あれが初めてだった。
18世紀オーケストラはヴィオラとチェロを核にした厚みのある響きが出る。イギリスの古楽器オーケストラによくあるシャラシャラした響きがない。この響きのコクが、音楽にすばらしい陰影を与えていた。単調に聴こえかねないハイドンの音楽が、実に豊かな彩りの響きになる。
18世紀末に全ヨーロッパがハイドンを愛していた理由を思い知らされた。

それ以降もいろいろ触れてきたが、ハイドンの持つ上品な語り口とユーモアの同居、ベートーヴェンより幾分控えめな転調が生むしんなりしたやさしさ、よく鳴るトゥッティの優雅さは、古楽器でこそきわめて明確に出る。
逆に言えば、ハイドンとベートーヴェンの間に起きた大きな変化は、響きの上からも実感しやすいということか。モーツァルト以降の音が妙に今の人々にも愛されている理由も、こういうところにあるのかもしれない。

***

などと言いつつも、こういう印象が覆る時がやってくるようにも思うし、だからこそ汲めども尽きぬ悦びがある。

楽譜って最低限のことしか書いていない。その時代に当たり前だったことは書き込まれていない。このため、演奏者に委ねられていることは極めて多い。
だから、ある時に「おぉー!」と皆がのけ反るような演奏をする可能性が常に隠されている。

録音ばかりが流れる日本では、決定版とも言える演奏が存在するはずであり、その最上の再現に向かって皆が切磋琢磨している、なんて印象を持ちそうだ。コンクールがあって、優勝者が出るのも、なんだかオリンピックみたいだし。
しかし実際の演奏会場では、演奏者がいて、聴き手がいる。そして、聴き手の反応が演奏にも跳ね返り、またその演奏による聴き手の反応があり、という具合に連鎖していく。その場その時の聴き手の空気は、毎回異なる。
演奏者がそれをくみ取る場合もあれば、我関せずで演奏していく場合もあるけれど、毎回まったく同じように演奏することは、まずない。それでいいし、むしろそれこそが音楽を体験すること。
名曲って、響きの骨組みがとてもしっかりした曲だ。それを、その場その時の空気で、毎回震わせ直す。毎度異なる発見と驚きと悦びがある。だからきっと、何度でも聴きたくなるんだと思う。

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