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2006.08.30

近代的な、あまりに近代的な(エウレカセブンに想う)

先日、「交響詩篇エウレカセブン」について触れた
思うに、熱烈なファンがつく一方で、「糞番組」と認定する人もたくさんいると思う。
真っ二つに割れるのは、作品として独特の世界を作っているはずだ。

通しで見ている最中、私の中ではずいぶんといろんな感覚が揺れ動いた。
しかし、最終的にはずいぶんと惹かれる作品となった。
私がこの作品を通じて感じたのは、おそらく監督が「いままでの映像演出の方向性だと、オレの感じて見ているような世の中の感じ方が描けない」と思っており、ものすごくあがいた結果が「エウレカセブン」に集約されたんじゃないか、ということ。

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いきなり話が飛んで申し訳ないが、明治時代。
夏目漱石は江戸時代の戯作から引き継がれた文芸の描写を、人が描けていないものとして退けた。
漱石が特に第2次大戦後、多くの人に読まれたのは、日本における近代的な人間の悩みを「三四郎」「それから」「門」「こころ」「明暗」といった作品で繰り返し描き、また、それを多くの人々が自分のことのように受け止めるようになっていったからだろう。
(実は戦前あたりまで、夏目漱石は主流派という位置づけではなかった。それはいわゆる自然主義、プロレタリアート文学などにあった。もちろんそれらも近代人を描いてきたが、漱石は特に自分のあり方や道徳的なことに葛藤を覚え続ける人間像に迫り、それは家庭と社会と自己の間で葛藤を感じる現代の人々にも訴えかけるものが強く、時代に左右されにくいのだと思う。)

こうした人間像は、内面を持ち、ある程度は首尾一貫した性格を持ち合わせる人々が、状況に迫られつつ行う様々な行動・選択を描いていく。それがリアルと受け止められ、多くの人に読まれるようになった。
映画も同様に発展していったし、子供向けと言われたテレビ・アニメーションにおいても「アルプスの少女ハイジ」「機動戦士ガンダム」といった1970年代中盤〜終盤を代表する作品群からは根深く腰を下ろしていった。

そして、こういう視点がいっぱいに広がっていくとむしろ、それがあまりに典型化された人間の見方に感じてしまう瞬間が、ないだろうか。
人間って、そんなにいっつも考えて、悩んで、判断しまくっているの? 実はそうでもなくて、意外にその時の流れやノリや反射で行動していて、ある時突然、意識のまな板に「ほんとにそれでいいの?」と尋ねられるようなシリアスな状況に置かれるから、びっくりするというのがほんとなんじゃないの? とでもいうような感じか。
それを文芸の視点で鋭く捉え直したのは、私の記憶に新しいところでは町田康「告白」だったりする。「告白」が明治の河内十人斬りを選んだのは、おそらく偶然ではない。近代になろうとしていった瞬間を捉えたのだ。

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「エウレカセブン」の、一見すれば芯が抜けて、話の一貫性を感じにくい演出は、実に不思議だ(進めていく中で迷いがあった?)。
また、軍にしてはずいぶんと間抜けな行動が多いし、世界の様子をいきなり登場人物の誰かがしゃべってしまうことも多い。何より、レントンが(LFOという兵器を扱うメカニックの下で育ちながら)自分が戦争=殺人に加担していたということを、やっと20話で本当に自覚したというのは、構成上も実質上もややお粗末じゃないだろうか。
こういう不備にも関わらず、各シーンで白熱する感情は独特で、妙な生々しさがある。それぞれが状況の中で、素直に反応する様を描くように徹しているのだろう。その熱に引っ張られて、最後まで見てしまう。

そして連続するシリーズの中で、各話の構成や台詞に対称性を持たせようとする手法。
(たとえば、28話で悲しい死を迎えるレイと、48話で人間に戻るアネモネの回は、28話がレイのハミングで、48話はアネモネの独白で始まるが、48話は28話に悲劇を繰り返さない、というところに力点がある。それは、前半のクライマックス26話のレントン&エウレカの手をつなぐシーンに連なってもいる。
4話と21話でマシューがレントンに語るシーン。
4回ある「アクペリエンス1〜4」のイメージが、たとえば16話にも流れ込んでいるし、もちろん42話も同様。
その42話、ポロロッカを起こしたサクヤとノルブがグレートウォールを超え、レントンとエウレカがそれに続く時、後を追うがペアのいないアネモネの前に現れるのは、おそらく幼児期の、両親がいた頃であろう琥珀色の記憶。続いてグレートウォール超えの失敗。それが44話でドミニクとアネモネの関係、デューイとアネモネの舞踏会のシーン(背後にワルツに乗る宇宙船、これは「2001年宇宙の旅」か)、疑似コーラリアンの創造と失敗へ続き、46話でドミニクが去ったことへの涙、そして48話へと巡っていく。48話のアネモネの独白は唐突なようでいて、意外に細かい準備が積み重ねられている。
まぁ他にもたくさんある。)

これを見ていると、監督やスタッフ達は、単に思いつきを並べてそれらしいシーンを作ればいいと考えていたわけではないことがわかる。
むしろ、筋書きや世界観よりも、目前の現象に注目しながら、その連鎖を積み重ねることで、何かを表現しようとしている向きを感じる。
それは万全の形で進められたわけでもないようだが、それを上回るたいへんな熱量も画面や音から弾け飛んでくる。

こういう感情とイメージの積み上げを見ていると、従来重視されてきた演出方法では人間が見えてこない、それでは個人の感情が形式の中での反応に見えてしまう、だからオレはこういう風にしか見えないんだ、という地点から、監督が全体を構成しているように感じる。
そして、それをスタッフと万全の形で共有できない面があったのかもしれない、とも妄想してしまう。(脚本や演出に非常に大勢が参加しているが、それを監督が統べようとして出来なかったのか、あえていろいろなものを放り込んでいったのか…)

京田監督の他の作品(「ラーゼフォン劇場版」など)を見ていないので、私はたいへんに的外れのことを書いてるかもしれん。だが、現時点では、これまでの作劇法や演出の範疇から抜け出そうとする気配を「エウレカセブン」に感じている。
つまり「近代的な、あまりに近代的な」人間観と、それに沿った演出から逸脱してでも表現したいものがある、ということ。

まー、結局はその作品を楽しめたか、というところに尽きるわけだが、この作品については、well-madeな面ではなく、人間表現の破格っぷりを楽しめるかどうかが鍵のように思う。
そういう意味では確かに、ニュー・ウェイブなのかもしれん。

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