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2007.01.25

「真鶴」の強度

文學界で連載第1回を読んだ時、あまり大きなインパクトを受けなかった。
そのまま、読まない回ばかりが積み上がっていった。
昨年10月に単行本が出て、正月の読書用に買ってみた。
放っておいて、1月中旬に読み始めた。
最初の数ページを過ぎる頃には、さらわれていた。

今までの作品にはなかった強度。
膂力、という言葉が似合うとは(一般には)思われないであろう作家が、その力をあえて解放したような気配。
なるほど、これは連載よりも単行本のほうが感じ入りやすい。

真鶴という地味な港町を歩く気配、東京での女三人(三世代)の暮らし、その往還を描く。短く切り詰めた文体で、記憶と目前のあれこれを、積み重ねていく。そこから生じる張り詰めた流れを、行きつ戻りつ押し進めていく。
流されるように読み終えた。これまでの作品とはまったく異なる読後感に包まれた。

それが川上弘美「真鶴」だった。

***

ついてくるものを感じながら、真鶴に立ち寄り、帰宅する主人公、京(けい)。文章を書く仕事をしながら、一人娘の百(もも)、母と三人で暮らす。夫の礼(れい)は失踪した。今は青磁と付き合いがある。その青磁との関係が微妙になっていることを感じながら、礼のこと、百のこと、母のこと、ひいては自分のことを思う。
その都度、真鶴に行く。そして、思い出すのだ、礼と暮らしていた頃、したことを。真鶴の祭りの夜、雨に濡れ、燃え盛る船と、そこから海に飛び込む男達を見ながら、激しく感情が揺らぐ。
そうして家に戻る。京は変わっていく。

不可思議な存在を描くという意味では、「物語が、はじまる」から「龍宮」に至る流れを含む。ついてくるものは「蛇を踏む」にもあった。
一方で、ここには「古道具 中野商店」のような生々しい人間の(つまり人と人の間に生じる)現実が描かれてもいる。
その両者は短く切り詰められ、現在形を多用した文体で描かれる。エピソードというより断片が積み重ねられる。たゆたうような淡さに見えて、積み重ねは意外にも濃い輪郭を落とす。手触りや、生々しさとともに。
だから、いわゆる(江國香織と並び称される意味での)川上作品にある切なさや淡さではなく、人を殺めかねない激しさが、間接的かつ明確に立ち現れる。

「神様」で主人公の女性は、くまに誘われてピクニックに出た。その連作の最後、最後のピクニックで雷雨をかばうくまは、雷とともに咆哮し、主人公はおののく。雷雨は去り、くまと別れる。
あの激しさ、いや比較にならない激しさが表れる。ただしそれは、失踪という誰にも感情をぶつけることのできない状況の中で、主人公の京の中に。それまで記憶の彼方に押しやっていたにもかかわらず。

***

その振幅の大きさから、後半に至る流れは自然の摂理のように的確に、導き出される。
しかし、中盤まで積み上げた断片、間接照明で浮かび上がる襞は、最後まで裏切られることはない。京が行くべき場所へと進む様を、静かに語り続ける。

話の筋ではなく、心の運動の軌跡だけが、すべてを形作っていく。静かな語りの果てに、これまでの川上作品のあれこれが流れ込み、さらに内へ外へと開いていく。
この跳躍の大きさは、ただごとではない。
おそるべし、川上弘美。

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