アウェーでの音楽
滔々と迫る音の波がついに沸騰し、巨大な音の柱を打ち立てる。清楚かつ重量感のある金管とティンパニに、すべての楽器が唱和していく。胸に迫るその白金の輝き。
自分だけでは得られないものをつかむ瞬間というやつが、人間にはあるらしい。
ただし、齢87に達した者にそれが訪れるとは、普通は思わない。
長く真剣に生きたものに与えられる、神様からの褒美なのか。
私がいうのは「朝比奈隆+シカゴ交響楽団 1996年アメリカ公演」という1枚のDVDのことである。
この演奏会は音楽雑誌やファンの口から聞いてはいたが、NHKの放映したドキュメントでやっと、終楽章のコーダを耳にした。
これまで日本のオーケストラを振った時にはついぞ聴けなかった重みと輝きの両立した響き。可能ならいつか全部聴いてみたいものだ、と思っていた。
2006年末、NHKクラシカルというシリーズによるDVDで、この演奏の全曲収録が実現した。これまでカラヤン/ベルリン・フィルの初来日公演、ベーム/ウィーン・フィルやショルティ/シカゴ響の来日公演など、伝説の名演奏を収録したシリーズの1巻に、加えられた。
少し迷った。
というのは、私は必ずしも朝日奈の熱烈なファンではないから。
古楽器主義だからなどというちんけな理由ではない。氏の実演に何度も接してきて、やりたいことはわかるんだけど、アンサンブルや音程などでもうちょっと精密に音にしてくれると説得力が増すのに、そこまでいかないのはなぜだろう、と思うことが多かったから。
とはいえ、あの放映時の印象は間違っていなかったろうと、手にした。
シカゴ交響楽団の支配人が直接、朝比奈隆に声をかけ(招聘し)、ゲスト・コンダクターとして、ブルックナー作曲 交響曲第5番 変ロ長調を三日間指揮した。その初日が、DVDに収録されている。
世界最強とうたわれるシカゴ交響楽団の金管。トランペットのハーセス、トロンボーンのフリードマンやヴァーノン(バス・トロンボーン)、ホルンのクレヴェンジャーといった20世紀後半を彩る名奏者が、全員現役で並ぶひな壇。その脇には、重量感と絶妙のタイミングを誇る名ティンパニ奏者、コスもいる。
また、ライナーが鍛え、ショルティで世界最高峰に達したアンサンブルは、全楽器のタイミングやダイナミックス(強弱)が完璧に制御されることでも知られる。潤い豊かな弦楽器、それにつり合う渋味ある音色と表情豊かな木管も素晴らしい。
1996年といえば、それを1991年に引き継いだバレンボイムが音楽監督。さらに意欲的なプログラムで精力的に活動していた頃。
ブルックナーの5番は比較的地味な扱いだが、名曲だ。序奏を経て荘重な主部を持つ第1楽章。澄んだ水のように流れる第2楽章、同じテーマを加速させておどけるスケルツォの第3楽章。終楽章は1〜3楽章のテーマを回顧しつつ、この楽章のテーマを二重フーガで大きく進め、コラールによる壮大なクライマックスを築く。構成と内容がよくつり合っていて、個人的にはブルックナーの名曲として一、二を争うと思っている。
ドイツ・オーストリア系の楽曲、ことにベートーヴェンとブルックナーを得意とする朝比奈隆だが、ショルティやバレンボイムらもシカゴ交響楽団で名録音を残している。
どのような音楽が紡ぎ出されるのか。
登場を見て、驚いた。
いつもの朝日奈の表情ではない。緊張している。少なくともそう見える。
80代後半でのアメリカデビュー、しかも相手は世界最高のオケの一つ、シカゴ交響楽団。そこへ単身乗り込む。慣れないメンバーを前にして、自分の指示と指揮ぶりだけで、自らの音楽を造形しなければならない。いつもの気心知れたコンサートマスター(コンマス)もいない。指示は日本語でなく、すべて英語。
90代が見えてきた老巨匠が、初めての土地とオケで、つまりアウェーで指揮する。
あの朝日奈が、緊張するのも道理か。
しかし、始まってみれば、静かで重いピチッカート、遅いテンポによるいつもの朝日奈の音楽が流れ出す。
第1楽章の手堅い運びは、いつもの朝日奈サウンドでないがゆえに、むしろ清冽かつ荘重に響く。低弦による分厚い地盤のすばらしさ! さらに進むと、90分の長丁場、こんなに出して持つのか、という心配をよそに、金管軍団が朗々とコラールを奏でる。ショルティやブーレーズが指揮する時は、ちょっとよそよそしいような冷静さとともに、8割程度に抑制することで美を保つあのシカゴ交響楽団から、朝日奈は(いつものように)これでもかと音を引き出す。そんな指揮ぶりに俊敏に反応して、ピアニッシモとフォルティッシモのすばらしい落差を音にしてみせる優秀なメンバー。
あぁ、これがやりたかったのか、これを彼は求めてなかなかできなかったのかと、得心がいくような響き。
一方で、どこかぎこちないところも感じる。多分オケは、朝日奈の動きについていくことに慣れていない。また、遅いテンポに必死にかじりついているところも垣間見える。
第2楽章はオーボエや弦楽器が歌う影で、ひそやかに動く中声部の動きが細密画のように聞き取れる。音楽はしかし、ゆったりしたテンポにはまって、朗々と流れる。残念ながら日本のオケでは滅多に聴けなかった正確な音程とアンサンブルが、とても美しい。
メンバーが少し指揮に慣れてきたのだろうか。
朝日奈もまた、オケを的確に動かすためか、いつもより丁寧に振っているようだ。
第3楽章のスケルツォではやはり遅めに始めるが、テンポを揺らし、クレッシェンドとともに加速しては戻して、動きのある演出に至る。やっと遅いテンポに慣れたばかりのオケは、ちょっとアンサンブルが乱れる。しかし、似た音形の繰り返しになれば、さすがにオケも、乱れっ放しにはせず、すぐに緩急豊かで推進力ある演奏になっていく。それだけではない、いつものシカゴよりはるかに暖かく、ノーブルな音色になっていく。
これこそおそらく朝日奈が日本で求めて、なかなか出し切れないでいる音なのではないか。改めてシカゴ交響楽団の底力に感じ入ってしまう。
3楽章が終わった直後、朝日奈がハンカチで汗を拭う様が写る。その緊張はやはりいつもとは違う。
終楽章に入ると、流れはさらに重心を低くし、安定感を増す。楽章間に見せる緊張、それはこの楽章への気力の充填だったのか。
回顧する先行楽章のテーマの後、輝くばかりの金管のコラール。その後、一度退いた勢いを、弦を中心とする二重フーガで漕ぎ出す。長い坂を登坂するように、エネルギーを増していく音。潤いある弦楽器の音は、さらにかつて聴いたことがないほど暖かい。荘重な、祈りの音。
うねるような満ち引きが大きな流れを作り出す。金管がかぶっては引き、また音が折り重なっていく。
胸に迫ってくる。
この盛り上がりは、単に音量が上がっていくだけではない、繰り返す音形の中に、ついに最後に至る道を見つけたような歓びが込められている。朝日奈の作り出した遅く、重心の低い音楽の流れに、ついにオケのメンバーが同調し、わかってきたような歓びが。
そうして、金管楽器のコラールが、クライマックスを築く。
ハーセスらが最大音量に到達し、ヴァーノンやフリードマンが目を見開き、全力を振り絞る。あの金管軍団が本気を出せば、他のすべての楽器音が吹き飛ぶ。その100%以上の本気を、朝日奈は引き出す。
「まだ音を出すの?!」と言いたげな弦楽器群はしかし、その轟音にくらいついて弓一杯に弾き続ける。木管も、これでもかと息を吹き込み続ける。皆が無心に奏でているようだ。轟音のただ中に静けさを見出し、そこに到達しようとするように。
金管のコラールに他の全楽器が厚みを加え、巨大なオルガンとなってホールの空間を制圧する。
その巨大な音の柱から、白金の光がきらきら溢れ出て、降り注ぐ。
文字通りの、音の殿堂。
胸から込み上げる何かを抑えることができない。
そうだった。ブルックナーの終楽章は、金管を中心にコラールの分厚い和音を構築することで、祈りを現出させるものだった。
多くの指揮者は、スコアに忠実に響かせるべく、音のバランスを作ろうと細工をする。
そのような細工は、むしろ無心にコラールを奏でる者の態度ではない。
国内のオケから大音量を引き出す朝日奈の指揮を、私は日本のオケだからと感じていたのかもしれない。もちろんそんな小さなことを考えている指揮者ではない、その当たり前のことに、いまさらながら気付かせられる。
音楽は、重く品のあるティンパニのロールを経て、最後の一撃に至る。
一瞬の間を経て、轟音を押し返すような暖かい拍手と歓声。
ほっとした表情の朝日奈は、弦楽器のトップと握手を交わし、管楽器群に「よくやってくれた」と手を挙げる。やっと振り返り、おもむろに譜面台に手をついて、客席を見回した。
ブラヴォーの声とともに、立ち上がる聴衆。それは輪のように広がり、総立ちになる。
やや照れたような笑顔を見せる指揮者とともに、とても晴れがましい顔を見せる楽団員達も印象的。
彼ら自身、ここまで終えて、初めて自分達が何をやったのか、わかったのではないか。
ものすごく精緻なアンサンブルと音を誇りつつ、本気の本気で弾きまくる音を聴いたことがないとさえ言われるシカゴ交響楽団。彼らが抑制をかなぐり捨てて、全力で弾く。それが、朝日奈の求める音の高潔さに連なることを、実感した瞬間だったのではないか。
(解説によれば二日目はよりすばらしかったらしいとあるが、それはこの表情を見ても納得できる。)
演奏は完全な朝日奈サウンドではないが、しかし、朝日奈が新日本フィルや大阪フィルで常日頃やろうとしてなかなか到達しきれなかったことを、かなりの確度でやり遂げた演奏にもなっている。
日本人によるオーケストラで、すばらしい美を奏でたいと思っていた彼にとって、この演奏はどう感じていたのだろう。
このDVDは単なる演奏会収録ではない。
演奏も曲もすばらしく感動的だが、同時に上質のドキュメントでもある。
アウェーで戦う老巨匠と、それに応える世界最高のオケが徐々に意志を通わせていき、90分のうちにとてつもない高みへ登り詰めていくドキュメント。
あれから10年を経た。朝比奈隆は既に天国に召された。
一方で、日本のオケの多くはかなり良い指揮者を海外から招聘し、日本人の若手・中堅指揮者の成長とともに、レベルの底上げを図っている。
次にこのようなドキュメントがあるとすれば、日本人のオーケストラによるものが加わるといい。それがおそらく、このDVDを遺した朝比奈隆という指揮者への、一番の贈り物になるのではないか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント