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2007.02.25

一人で聴き、みんなで聴く

オーケストラのコンサートに行くとしよう。

夜道に人の流れが出来ていく。流れに乗って歩くと、すぅっと明るくなる。演奏会場入り口だ。
チラシをとりあえず受け取る。チケットを取り出し、もぎってもらう。曲目などを記したパンフレットを取り、まずは座席の確認。
まだ時間がある。ロビーに出てみよう。既に客が入って寛ぎ、ざわめいている。プログラムやチラシを見たり、CD販売の様子をうかがっていると、知人に会ってちょっと歓談したり。あるいは、演奏中に腹の虫が騒がないよう、ホワイエでサンドイッチにコーヒーをとったり。念のためにトイレを済ませておいたり。

開演の知らせが鳴り響く。
席に着く。思い思いの姿勢で、あるいはおしゃべりで、登場を待つ。ざわめきは、オーケストラのメンバーの登場で、低くなる。場合によってはここで拍手。
全員が揃うと、チューニング。オーボエが出すAの音。コンサートマスターと弦楽器の合わせ。やがて木管、金管が合わせ、音が満ちていくと、ティンパニ奏者も耳を近づけて、最後の確認をしている。
そうしてどこからともなく音が止む。
客席の期待が、静けさにぐっと凝縮される。

指揮者の登場。
満場の拍手。オーケストラ・メンバーの起立。
指揮台にたどり着いた指揮者は、客席に会釈をすると、振り向いてオケに向かう。
メンバーが着席。拍手も止む。
鎮まり、高まる空気。
それを身にまとうように指揮者はオケをうかがい、構える。客席の空気は一瞬で呑み込まれる。
棒の一閃。
鳴り響く音が、そこに居合わせるすべての人々を運んでいく…

***

ポピュラー音楽の歌姫が、数万人を収容するアリーナでのライヴなら、静けさよりは熱狂で始まるかもしれない。一挙一投足に皆の注目が集まり、いつも聴いているあの曲の、あの声を、同じ場で共にしていることに(マイク越しであっても)震えるだろう。
1曲、あるいは数曲歌って皆をつかむと、MC(語り)が入る。
アップテンポなら、歌姫のリードに、一緒に手拍子をするだろう。バラードになれば、自然に動きが止まり、全身が声をとらえるだろう。

コンサートに赴き、会場で聴くなら、これだけの音の起伏と皆の呼吸がある。他の何にもジャマされず、各人がひたすら思いを投げ出せる。陶酔と覚醒が同時にやってくる。
何か特別な、祝祭に等しい体験。そう表現しても過言ではないだろう。(それだけに、つまらなかったら、とっても腹立たしいわけだが。)

ただ聴くだけなら、自宅でCDをポンと載せ、スイッチを入れれば始まる。
同じ楽曲を聴くことには変わりない。
でも、経験としてはまったく違う質のものだ。
もちろんどちらがいいというものではない。生活の中で潤いをもたらすCDやiPodによる響きも、コンサート会場での全身的な没入と覚醒も、どちらも今の生活には欠かせないという人々は多いはず。

***

ところで、Blog以前の猫時間通信(こちらと、その前日)でも触れたが。

20世紀前半、レコード初期は記録時間が短かった。1面でせいぜい3分程度。交響曲を1楽章聴くために、何度も盤面を交換する。
20世紀後半、LPレコードになると、1枚の表裏で40分程度は記録できるようになった。長くない交響曲なら、A面で1〜2楽章、B面で3〜4楽章。ポピュラー音楽なら、アルバムとして10曲程度。
ここで初めて、まとまった楽曲を手に入れて、好きな時に聴くことを経験した。ラジオとは異なり、自分の好きな曲を、自宅で好きなだけ。
CDにより、収録時間が70分程度に伸びた。しかも、盤面をひっくり返す必要がない。たとえば、ベートーヴェンの第9を、そのまま通して聴ける。
これがiPodにより、ベートーヴェンの交響曲全曲を、休み無く、操作で途切れることもなく、連続して聴き続けることだって可能になった。
こうした変化が、音楽の聴き方に影響をどう与えるのだろうか、と考えたことがある。

当時はまだiPodを持っていなかった。
1年以上使ってみて思ったこと。

聴く場所、時間も自由にコントロールできるならば、真剣に聴く時も、ダラダラ流す時も、自分の采配でやれるため、各自のペースに落ち着くだけではないか、と感じることが増えてきた。
むしろ、違うことに興味が移ってきた。

***

音楽はおそらく、共同体の結束に欠かせないものとして、当初は発展したと考えられる。ヒトは内部にパルスを持つことで、本来は不安定な二足歩行や、手足などの協調する動作を行えるように進化してきた。同じリズムと響きを共有することは、動作を合わせて、社会的な協調行動を可能にする側面を持つ。(音楽に感心を持った考古学者や認知科学の研究者が指摘するようになってきた。ミズン「歌うネアンデルタール」、ベンゾン「音楽する脳」など。)
つまり、音楽は複数の人々との共有を前提にしていた、という考え方。

20世紀に入り、音楽は初めて皆で聴くのではなく、自宅のリビングで家族と、あるいは自分の部屋で一人で聴けるようになった。それがウォークマンにより、一人で好きな時に聴けるようになった。
20世紀末〜21世紀初頭にかけて、MP3プレイヤー、iPod、他のデジタルオーディオプレイヤーの発展により、各自が棚一つ分程度の音楽を持ち歩けるようになった。
つまり、iPodの登場とは、20世紀に普及し始めた音楽を聴く機器として、発展の極みに至ったもの、と見做せる。

音楽との付き合い方が、一人でどこでも聴くことがベースになったなら。
(デートの時に、イヤホンを耳から離さない人も出てきている。)
一杯音楽を浴びるのだから、むしろ同じ興味を持つ人々と空気を共有すべく、積極的にアーティストの出る場に足が向くのか。
それとも、そんなことはどうでもよくなり、生活音の一つ、単なるBGMとして流されるだけ、感情を制御するための記号になっていくのか。

もっとも、どの楽曲を聴くかということに関しては、やはり注目を浴びるもの、ヒットしているものに耳が奪われやすい傾向はあるのだから、思い思いの場で、(ラジオやテレビが音楽の中心だった頃と同じように)響きを共有している、とは言えるのだろうが。
それでも、ネットや端末で時間と空間の制約が減るほどに、何かが拡散して変わっていくはずだとも思う。
何より、音楽の本質の一つ、場で時間とリズムを共有する歓びは、どうなっていくのか。

2015年頃、音楽を聴くという行為は、どうなっているんだろう。

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