折々のうたから、小林秀雄へ
朝日新聞の朝刊の第1面、天声人語の上の小さな囲みに、詩歌の連載がある。
大岡信「折々のうた」。
この3月31日で終了するという。1978年1月以来、休みはあったにせよ、ずいぶんと長く続いてきて、終わるということをあまり意識していなかった。
この欄がすてきなのは、新聞の最初の面に、やわらかくも力強い言葉が刷られていることにあると思う。
詩歌は通常あまり読まれない。いや、短歌や俳句の愛好家はたくさんいるし、それなりに読まれている分野ではあるが、他の分野に比べて読者の絶対数はそう多いとは言えない。
口語詩だって、1960年代まではいざ知らず、最近は詩集が売れるという話は(一部の例外を除いて)あまり聞かない。
詩集はむしろ、アートや写真集と同じような、特殊な本、というイメージさえあるのかもしれない。
(一般的によく耳目に触れる詩は、むしろ音楽の歌詞だと思う。)
でも、新聞の第1面に詩歌があると、言葉の強度がまるで違う。
わかりすいとは言えないのかもしれない。ただ、事件を伝える簡潔な言葉や、最近は間抜けな結語の多い天声人語と並ぶと、読め、と浮かび上がってくる力強さを感じる。
もちろんそれは、選者の大岡信氏の力があってのことではある。
氏はつい最近出版された詩集、歌集を紹介したと思えば、中世や古代にまで遡ったり、現代の短歌や俳句にも足を向け、本当に広く選んでくる。
「折々のうた」終了が告知された26日のうたは、これだ。
人形といふものは何老いてなほ其の何たるかまだ見えてこぬ鹿児島寿蔵
「ひなげしの波」(昭三九)所収、とある。紙塑人形の創始者として人間国宝にまでなった方の、晩年に近い時期の作、ともある。
名人にしてこの言葉、というのはよくあること。
これを目にしてパッと浮かんだのが、小林秀雄「無常といふ事」。
手元にすぐ著作が出て来ず、記憶に頼ってしまうが「生きている人間は何を考えているのか何を言い出すのかわからない」ということば。
そんなふらふらしてる人間に対して、歴史に出てくる人間の退っ引きならぬ形、美しい形しか現れぬことを言い、そこから人の有り様と無常へと転調していく、短い随筆。
坂口安吾がこの言葉に噛みついて、次に何をやらかすかわからない人間を書くからこそ文学なんだ、と書いた有名な逸話もあるが。
また学生時代、この随筆を読んだ同級生が「だったら無名の人間で記録も残ってないヤツは存在しないのも同じなのか」と噛みついてもいたが。
人間のまどい、不定形、わけのわからなさは魅力であるとともに、その人の、なり(形)を見えなくする面は、確かにある。
名人は、つかめたと思ってもなお揺れる形を求めて、一生作り続ける。というより、人の心などというものは形がなく、働きがすべてであり、その働きの癖を定着させることで、やっと形に見えてくる。
そうやって生み出された作品こそが、その人の本質的ななり(形)をしっかりと把握している。だからこそ(作者の思惑なんぞ飛び越えて)人の心を打ち、永遠を約束される。
こんな素直な感じ方とは、まるで逆回しに語ってしまうのが、小林秀雄。
思えば実に詩的な魂を持っていたのだと、また別の意味で打たれる朝だった。
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