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2007.04.11

読み書きと意識

前のエントリーで、画面の広さと読み書きに関して触れたが。

PCやモバイル(ケータイ)での「読み」と「書き」をゴッチャにしてる、と思う向きもあるかもしれん。
読むのは本や雑誌、あるいはちゃんとレイアウトされたそれ相当のWebページ(もしくは知人や有名人のWebページやブログ)。
書くのはワープロやエディタなどの専用環境。
それぞれ別のもんだというだけ。いままでだって原稿用紙への執筆と、本や雑誌の購読は、まったく別の行為だったじゃないか、それぞれに合った環境で読み書きできるだけなんだから、大した問題じゃなかろう、と。

どっちもPCやケータイで行われるようになっていく、ということがモンダイなのだ。

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日常で文章を読む一番長い時間は、メールとWeb、という人が少なくない時代に入っている。
もちろん、職業や世代によって異なるだろうし、PCもケータイも必要がなければ見ないという人だっているだろう。しかし、10代後半から50代くらいの人々なら、メールの読み書きをしない人が減り、また画面に向き合う時間が1990年代と比べて長くなっているはずだ。(そして減っているのおそらく、テレビを見る時間。)
メールを読み書きしてれば、それに付随してWeb(ブログなども含む)を読む人も増える。新聞だって第一報ならWebページのほうが速いからそちらを読む機会も増えている。

以前から文章を書く環境はプロアマどちらも、明らかにPCでエディタやワープロを使う方向にシフトしている。
現在は画面で文章を読む時間が、明らかに長くなっている。いわゆる新聞・書籍・雑誌相当のものから、雑多な議論・おしゃべり・つぶやき・ひとりごとに至るまで、なんでもかんでも立ち現れてくる。しかもWebブラウザという窓枠の中に。

Webやブログによって、読み手と書き手の間の敷居が低くなった(あるいはなくなった)ということ以上に、読むことと書くことを同じPCや携帯端末の上でまとめて行うことが当たり前になり、人が使った言葉がすぐに自分に乗り移り、そこからさらに他に反射されていく過程が速まっていることの方が、より影響が大きいと思う。

いままで以上に速い言葉のやりとりは、言葉遣いに影響を与えないわけがない。
さらに画面の大きさ・広さ、また入力方法などによる、文章や言葉遣いへの影響もある。
こうした変化は、意識のあり方にも影響を及ぼすだろう。
(似たような議論は、大量印刷物が発生した19世紀や、ラジオ登場の20世紀前半、テレビの発展した20世紀後半にも言われてきた。しかし、個々人が手にできる端末が、メディアと執筆制作環境を兼ねており、それが広く普及したというのは、本当の意味で前代未聞の経験のはずだ。)

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意識は、環境(という外部)と、自分(という内部)との間のインタラクションとして機能する部分が大きい。(言葉による自意識は、その最たるものだ。)
PCや携帯端末の上で、自分という自意識とのインタラクションがあり、さらに親族、知人・友人、第三者、マスメディアとのインタラクションも発生する。

PCとインターネットによる革命は、双方向に情報を発信できることとよく言われる。
しかし、同じ画面環境上にすべてのインタラクションをまとめてしまうこと、そのもののほうが、影響力が大きい。
たとえば、立場によって応対を変えたり、意識を切り替えることが減り、よりフラットな人間関係を促すだろうし(兆候は前からある)、検索で古い時代の文献も今のことも同じ画面上で羅列・閲覧していれば、時間や時代の変遷についてもギャップが減って、フラットな感じ方をするようになるのかもしれない。
(とはいえ、古い時代の文献は、その当時なりの言葉遣いや流行りを踏まえて書かれているから、そういったことも探っていかないと、ちゃんと読んだうちに入らない。だから、簡単に時間のフラット化が起きるかは、正直言ってよくわからないんだけどね)

一方で、意識は自分と明らかに違うものを見聞きする時、そこにざわめきやトゲを感じて、より生々しく動く。
上記のようなフラット化が起きるなら、一方で、フラット化する方向にまとめきれない、明らかに異なる意見や感じ方は封じ込めようとしたり、それについて思考する機会を奪う方向にも働くのかもしれない。

まぁ憶測交じりの与太話はおいとくとしても。
自分の感じ、考えることを、100%スバッと言えることって、実は存外ないはずだ。近似する状態で何とか満足するのが普通なのだが、むしろ大量の言説がない環境ならあまりそういうことで悩まなくて済むとさえ言える。
大量の言説が去来するから、そんな近似を満足させやすくなる。それを「あー、わかる、わかる」と発信しやすい環境もある。
そんな世の中ならむしろ、少なくとも近似の言説を検索するだけでなく、自分がちょっとだけ感じる違いはナンだろうかと、少しずつ感じ・考える時間を設けることのほうが、大切に思う。
それはきっと、テレビというメディアがもたらした、人々を一斉にうなずかせる方向と袂を分かち、むしろテレビの本来の力(映像を見せることで好奇心を発動させ、さらなる探求へ向かわせる)を引き出し、既存のメディアともよりおもしろい関係を築けるようになるポイントだとも思う。

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