「『真鶴』以後」
久々に読んだ本の感想を書いたが。
それまでまったく読んでいなかったわけでもない。
ただ、川上弘美「真鶴」を読んでからというもの、小説の感想を以前のように書くことに、ためらいのような、疑問のような、でもそんな明確なものではないナニかを感じて、手が止まる。
あの傑作にも不満がないわけじゃない。後半、するすると流れすぎるような気がしないでもないし、最後はあんなに光が降り注ぐものだろうかとも思うのだが、読み返すとやっぱりこれしかないなぁ、と感じてしまう。
「真鶴」について書こうとすると、延々と引用せざるを得ない。それはしかし、核心に触れるとは限らない行為だ。
ここでも触れた高橋源一郎「ニッポンの小説」のように、連載の2回に渡って(つまり文學界の 2月号と3月号 3月号と4月号 に渡って)、膨大な引用をしつつ触れていくような形。
(あれは非常に誠実な触れ方だ。)
[訂正] 高橋源一郎「ニッポンの小説」で『真鶴』について触れていたのは、文學界 2007年3月号、および4月号の間違いでした(2月および3月に発売された号なので、3月号および4月号が正しかったです)。 お詫びして訂正いたします。(2008.02.14)
そして、作者の川上弘美氏と、山田詠美氏が、対談(群像4月号)で 「ニッポンの小説」に触れているのもおもしろい。
山田詠美氏はまた、この作品に「マスターピース」という言葉を贈っている。
マスターピース。
辞書的な説明なら「傑作」だが、むしろ「今後その分野の作品のあり方を新しく規定するような傑作」というニュアンスだろう。
小説家が小説家に贈る「マスターピース」という称号。
いや、小説家だからこそ贈れる言葉か。
春樹以後の作品、という言葉があるが。
「真鶴」以後、という意識を持たれるようになるのだろうか。
(世代的な意味合いとは異なるだろうが。)
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コメント
公開後、少しだけ文言を変えましたが、文意は変わっていません。
投稿: Studio KenKen | 2007.04.19 12:20