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2007.07.05

骨董に込める思い

先日触れた「ETV特集・吉田秀和」は、あちこちのブログやSNSでも言及されている。おそるべしテレビ、おそるべし吉田秀和、である。

番組でも取り上げられていたが、ホロヴィッツ初来日公演についてコメントした「ひび割れた骨董」は、独り歩きしてあちこちで反射・共鳴していった。

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あの公演の様子は、NHKで放映された。
私は当時大学生(年がばれるね)。チケットは買えず、放映を通じて聴いた。

あまりにボロボロのベートーヴェンのソナタでスタートした途端、驚くを通り越して、呆然とした。
記憶の中のホロヴィッツ。トスカニーニの火を吹くようなオーケストラを完全に向こうに回して、冴えた横綱相撲をする怪物ピアニスト。ピアノとは思えない鋭さで表現するドメニコ・スカルラッティの弾き手。誰にもまねできない、美しいを通り越した、凄みのある音を絢爛と繰り出す名手。
それが、哀しいまでのミスタッチ。どうしてしまったんだという弱い音。全盛期をとうに過ぎていることは承知していたが、その数年前のカルロス・クライバー初来日が巻き起こした熱狂(しかも壮絶な演奏!)を想えば、あまりの落差に愕然とした。
休憩になり、マイクが様々な人々に向けられる。その中に、吉田秀和氏もいた。
唯一無二のピアニストだから、骨董みたいなもんだが…あれはひびが入っちゃってる、という趣旨の発言。

翌日、大学で見ていた人はたくさんいた。そして、あの演奏にびっくりしたこと、あの批評の的確さに感服したことを、皆が口々に話した。(それくらいの騒ぎだったんである。)
一方で、この「ひび割れた骨董」という言葉そのものに強い拒絶反応を示す人々に、後日出会った。さらに、翌月の音楽評で、吉田秀和の発言に反対表明をする人々も出た(まぁ確かに、後半、音色は盛り返したけど)。

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拒絶反応の多くは、骨董という言葉にあったようにに思う。つまり、
 「骨董」=「役に立たない古いもの、ただ飾っておくだけのもの」
といった意味合いにとらえたんじゃないか。

当時はクラシック音楽を愛好すると、たまに「なんで古い滅びた音楽を聴くわけ?」と素朴な疑問をぶつけられた。いや、今でも変わらないかもしれない。
おそらくそういう質問を通じて「クラシックは骨董(=古びたがらくた)じゃない、今に生きる、最高にかっこいい音楽なんだよ」というイメージを持っていれば、先の発言に反発を抱くのかもしれない。

でも、骨董とはがらくたではない。
独特の、唯一無二のナリ(形)を持ち、関心のない人にとっては二束三文だが、好きな人は一千万でも一億でも十億でも買うような、そういうもの。
吉田秀和は小林秀雄や白州次郎・正子夫妻らが近くにいたのであり、美術や骨董を愛する人々に囲まれている。そうじゃなくても、正確な表現を心がけるから、間違った意味で言葉を使おうとはしないはずだ。
さらに、あの1980年代前半(バブルの来る前)は、青山の骨董通りに若い人々が行き交い、根津美術館に遊ぶ人々も増えていた頃。そういう知人達の間で、あの発言への反発など皆無だった。

吉田氏の発言は、正しく骨董という言葉の意味を踏まえてなされている。
そのニュアンスを読み取れないなら、それこそミスリードなわけだが、意外にそういう人々が多かったようであり、そのことに(ホロヴィッツのミスタッチ以上に)驚いた。

***

先日の放送で、氏自身が当時何を感じてそう語ったかを、自ら語り直している。
そんなことが必要かと思い、そしてあの頃を思い出し、今を考えるにつけ、やはり必要なのかとも思ったりする。
いずれにせよ、言葉の射程の正確さを常に想う人の言葉であり、そしてそのように放たれて響き渡った言葉であった。

それにつけても、今の政治の言葉の貧困さよ。

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