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2007.12.19

2007年文芸、補足

いつのまにかえらい間が…。
別のところで長文を書いているうちに、こちらが放置状態になっていた。

ところで、前回の記事で書き忘れたことが一つ。

2007年の単行本、福永信「コップとコッペパンとペン」は、触れねばなるまいて。

ただし、この本は読み手を選ぶ。
文章は端正。が、わかりやすいストーリーなどない。時空や視点がふいにずれる。何を書いているか明確にわかり、意義深さが感じられるような物語を読みたい人は、壁に投げつけそうな作品ばかり。
しかし、読んでいて、ドキドキする。不思議な臨場感がある。登場人物達の感じている緊迫を、横で一緒に共有することになる。

普通の日常を送っていても、ひょいと意味の脈絡のない出来事に人は出会い続けている。
大きな事件でなければ無視して、以前から続く自分の意識に添った文脈の事柄を見続ける。それが普通の暮らしだ。
でも、そうやって固まっていく意識って、結局は習慣から派生するものがほとんど。
感覚を開いて鋭敏にしていれば、見落としていた出来事が見えてきて、実はそれが日常に側面から少しずつ、意識に上らない影響を与えていることに気付く。

現代美術にはそのような感覚の解放(むしろ覚醒?)をもたらす作品が多い。視覚によって、日常の習慣的な意識や意味から離脱することができるから。

言葉は意味を持つ。意味と因果の連鎖により、言葉の流れが絶えず心の中で生起し続け、本来は流動する意識を安定した形にして、安心しておくための道具になっている。
だから、こんな感覚の解放を、言葉を通じて小説で行うのは、至難の技。

この書籍では、言葉の流れを読みつつ、一般的な意味と因果の連鎖がずらされて断層が見え、やがて固まった意識が揺らいで、感覚が開く瞬間が立ち現れてくる。
そんな小説は、滅多にない。

この本は読み手を選ぶと書いた。
しかし、小説や物語への先入観を満足させてもらおうという人にとって、地雷であるだけ。
正確には、文芸作品への先入観を取っ払うことで、むしろあらゆる人に開かれた本である、というべきだ。

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