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2007.12.08

もう2007年の文芸回顧記事か

新聞が、論壇や文芸の2007年回顧記事を掲載し始めている。
……もうそんな時期なのか。
(そりゃそうさ、もう寒いもしね。)

***

個人的なこと。
今年の初め、積ん読にしていた川上弘美「真鶴」を読んだ。
それ以降、小説は何か、小説について書くとはどういうことかが、繰り返し身体の内に響き返している。
そうして、読んではいても、こういう場で気楽にあれこれ書く気になれないでいる。
印象に残ったものに絞り込んで、短信だけでも残してみる。

小林信彦「日本橋バビロン」
「日本橋区」と出自、家の行く末。小説かそうでないかの瀬戸際で、飄々と書く。いや、おそらく英文学の伝統からすれば、こういうのが小説なのかも。
最後にズドンと重いものがやってくる。こういうものがまだ生まれるんだ、とその重みを受け取った。

庄野潤三「ワシントンのうた」
2006年の連載を、2007年に単行本化。ここ10年ほど続いていた日々の語りから離れ、幼年期から今に至るまで。今に戻って、ぜひ次も読みたいです。

桐野夏生「メタボラ」
新聞連載の単行本化。記憶を喪失して何かから逃れている青年が、正反対の性格の若い男性と沖縄の密林から町に逃れ、友になる。自分の居場所と、途中ではぐれたその友を求めて、職と場を変えていく。記憶を取り戻すと、家族にまつわる暗い記憶と、新潟の工場での無残な日々。対比される、沖縄の現在。あえて荒れた文を選んだような、登場人物ごとの視点。
いまの日本のやりきれなさを容赦なく描いた末のラストが忘れられない。

松浦寿輝「川の光」
新聞連載の単行本化。ねずみの親子が住む場所を追われ、新しいすみかを求めて旅に出る。これまでの作品によく出てきた迷宮放浪とは無縁。正確な言葉を選び、リズムよく進む。光と影の中を進むねずみの親子の役割分担、機知、行動は感動的。「博士の愛した数式」を読み、少し違う風味の作品を読みたい中高生にはぴったりかも。
名作であるとは思う。ただし、個人的にそう好きになれない作品でもある(欠陥ゆえではもちろんない)。

松浦理英子「犬身」
電子ブック連載(Web上で販売)を、紙媒体で単行本化。自分が本当は犬ではないか、とまで思う女性が、この人になら飼われてみたいと思う相手と親しくなる。その場を提供したバーの主の手引きにより、本当に犬になる。それから続くと思われた至福の日々は、思いがけぬ近親相姦により破られる。
ヒトにおける性愛のあり方、それに直接・間接に結びつく人間関係や距離、逃げることのできない家族という関係が、元ヒト現イヌの視点で紡がれていく。やはり松浦理英子おそるべし。

***

なんか月並みなラインナップになったような気もするが、仕方ない。

群像の連載を拾い読みしていて、改めて読まなきゃと思っているのは、伊藤比呂美「とげ抜き 新巣鴨地蔵演技」
たまに目にすると、古今東西の詩歌や小説の響きを縦横に「借り」つつ、詩歌と小説の際を走り抜けていく声のトーンが印象的。

群像と言えば、埴谷雄高の創作ノートが掲載された11月号は入手に苦労するほど(つまり売り切れ続出)。
同時期、横浜近代文学館で埴谷雄高展が開催。所用を兼ねて、平日の午後に赴いたが、意外な混雑にびっくり。
逆に言えば、瞬発的に売上を伸ばすヒーローは、いまだにこういう名前なのかと思い…いや、クラシック音楽のカラヤンやベーム、ロックのビートルズ、ローリングストーンズ、クィーンなどがいまだに大きく人を動かすのだから、そういうものか。

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