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2008.04.29

自由と自由と統制、2つのモデルのせめぎ合い

ほんとにG.W.かという朝晩の冷え込みが続いたけど、本日は見事に暖かくなった。少し安心した。

ところで、26日に北京オリンピックの聖火リレーが、長野で行われた。
集まった中国人、またリレーの妨害工作などで騒然となり、逮捕者が出た、という報道が相次いだ。
たとえば、こんな記事(アサヒ・コム、4/26)。
また、ソウルではもっと騒ぎが大きかったことも話題になったが、それ以上に「聖火応援隊」を派遣していたという報道(アサヒ・コム、4/29)も出てきた。

うーん・・・
北京オリンピックを通じて大国ぶりをアピールするのは、やめろと言われてもやるだろうから仕方ないけど、政治体制の違う国に、自国の人間を派遣して治外法権すれすれで振る舞うとすれば、いかがなものか。
それでも中国は、コントロールのきく政治経済体制を前提に動き(それがうまくいっている、という自負さえあるはず)、半ば輸出することにも抵抗はないんだろうな。
10〜20年程度はどうにかなっても、長い目で見てそれがうまくいくと本気で思っているのだろうか。
明確な目的に向かって統制をとると、一見効率がよいが、目的そのものを見つけながら進むにあたっては、計画そのもので縛りまくるのは逆に萎縮させ、活力を奪うんじゃなかろうか。

***

ところで、私は何を連想したかといえば。
自分がブログ開始以前(2003年)に書いてWebで発表した物語「呉さんの茶」。
(冊子「繭玉」にも収録したが、その際にタイトルを「呉さんのお茶」にした。)

主人公が中国からの留学生、呉さんとたまたま知り合って、淡い交流をしたというだけの短編だ。
ただ、このお話は、富士山に大量に取りついた中国人達が一斉に跳ねて地響きを起こし、それをテコに富士山を噴火・破壊することを目論んだ、というフィクションを背景にしている。つまり、失敗こそしたけど、組織的に日本の象徴を破壊しようとした人々がいた、それは中国人だった、という話を下敷きにした、中国人との交流。

状況はまったく違うが、もし中国人が勢いをつけてよその国に働きかけるなら、と妄想するうちに、書き留めたもの。妄想なので、モデルなどはまったくない。
いや、予見とかそういうことを言いたいわけじゃない。
ただ気になってしまう。

形は違うが、現実の事件に遭遇すると、ネタを最初に発想した時の「こういう方々とはどうやって付き合っていけばいいのか」という気分が鮮やかに蘇ってきたのだった。
まぁ現実の事件においては、言葉と理を尽くして、相互理解という名の落とし所を決めるしかない。
まして、中国がG8枠の拡大を要求した場合、民主主義国家とは言えない国の加盟を認めるのか、という問題にも発展する。
さすがに現状のままそれを認めちゃいかんだろ、とは思うが、現在の中国の経済状況からすれば、わからん。しかも日本は安保常任理事国に押し上げてもらいたい、という思惑もあったりするしな。
自由に考え、ものを言えることは結局、そこに住む人々を活性化する。最近は日本もやや危ういかもしれないが、それでもまだリベラルな国だとは言える。中国パワーに拮抗するには、ここしかないと思う。

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