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2008.05.24

カラヤンとブリュッヘン、そして21世紀?

カラヤンについて3回連続で触れた。
カラヤンへの熱狂は、1950〜1960年代の文化的要請に応えたことにより、決定的な記憶を世間に刻印することが出来たから、と私は考えている。
それはレコードやテレビ/ビデオなどのメディアを活用して、何度も繰り返して聴く一方で、コンサートという祝祭の場をツアー化して世界中で行うものだった。今の人々が当り前のように思って疑いもしない音楽状況を、創り出していく過程でもあったはずだ。
これが第2次世界大戦後の、クラシック音楽のメインストリームである。
ベルリン・フィル、ウィーン・フィルといった中央ヨーロッパの最高楽団の世界制覇、ヨーロッパ各地の特徴や伝統を活かした地方都市楽団がそれぞれの特徴を活かした録音を展開する一方で、新興世界のアメリカではシカゴやボストン、ニューヨークのオーケストラ、あるいはメトロポリタン歌劇場が(経済力にものをいわせて)競ってもいた。
こうした文化の特性は、歌舞伎のように、よく知られた演目を、誰がどうやるかに関心が置かれるものであり、それを世界中で共有するようになったとも言える。

ところで、レコードは時空を超えて演奏を再現できる。いや、厳密にいえば演奏そのものではなく、可聴周波数の一部を再現して、印象の一部だけを伝えるものであって、その場の空気感や、ライブでの聴衆の反応まですべてわかるかといえば、無理である。しかし少なくとも曲や演奏の印象を在る程度は再現できる可能性が出てきた。
こうなると、大衆の熱狂するメインストリームだけでなく、音を記録して、何度も再生することを念頭においた企画、というものが成立するはずだ。

何が言いたいかといえば、図書館や博物館に譜面が眠り、また一部は印刷されてもいるが、ほとんど演奏会にかからない曲目を、一流の演奏家による音で残しておく、という発想が同時に出てくる、ということ。
つまり、古楽の復興と記録である。
1960〜1970年代にはテレフンケンのDas Alte Werkシリーズや、ハルモニア・ムンディによる古楽(バッハ以前の音楽)が、退屈せずに聴ける録音を残し始めた。アーノンクール、レオンハルト、ブリュッヘン、クイケン兄弟らが登場してきたのはこの時期であり、一部の若者の熱狂を呼び起こした。ヨーロッパ中世末期、ゴシック建築の中で鳴り響いた対位法音楽が、場合によってはシェーンベルク以降の極めてモダンな響きと相対する、といった驚きを、世界中で共有しようとするような側面もあったと思う。古典派やロマン派の音楽すべてが美しく枠にはまっていく中で、前衛的な現代音楽の興隆から少し遅れてやってきた、温故知新の前衛、だったのかもしれない。

(注:ただし、こうした古楽復興初期の演奏家達は、戦前〜戦中生まれであり、むしろ20世紀の「すべての文物を博物館に」という発想から、本来の響きある音楽に解放したいし、それは現在よく聴かれる19〜20世紀の音楽と同じくらいに楽しく面白い、という発想が基本だったように思う。それが、時代と合致した、とも考えている。)

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1980年代に入ると、古楽器によるバッハ以降、つまりモーツァルトやベートーヴェンの演奏が出てきた。その是非を問う議論がしばらく続いたが、1980年代後半、レオンハルトのバッハ「ロ短調ミサ曲」、ブリュッヘンやノリントン、ガーディナーらが古楽器によるモーツァルトやベートーヴェンを振り、いい演奏として聴かれるようになった。そうして1990年代の幕開け、アーノンクールによるベートーヴェン交響曲全集(ヨーロッパ室内管弦楽団、現代楽器のオケ)が高く評価されたあたりで「こういう演奏だってありだ」という流れが出来てきたように思う。
アバドは新しい楽譜全集や古楽演奏も意識しつつ、カラヤン以降の新しい響きをベートーヴェンの全集で追求しようとした。アーノンクールだけでなく、ノリントン、ガーディナーらは積極的にモダンなオーケストラを振るようになっていく。

アーノンクールやノリントンの特徴は、1960年代にカラヤンが切り開いて世界中に影響を与えた、複数楽章を一体成形したような美に落とし込むものではない。
個々のフレーズの手触りをはっきりと示しつつ、それらが噛み合い、宥め合うような音によるドラマを、がっちりと描き出すことにある(かといって、音楽がバラバラになってしまうことがないのは当然)。
このため、音楽は非常に複雑な要素がどんどん響きの中から立ち上がってきて、その場で大勢の人々が話し合いをしているような活発さが生まれる。それを実現できるなら古楽器にこだわらないところも、彼らの共通点だ。

その新鮮さは、ここ数年は音楽好きの話題に必ず上ってきたし、より若い世代であるラトルやパーヴォ・ヤルヴィらが高い評価を受ける地盤となってもいるだろう。またミンコフスキーらは、モーツァルトなどを古楽器オーケストラによって過激かつおもしろく演奏している。
つまり、いま主流となっている、旋律やリズム、伴奏などをはっきりとした抑揚で表情付けして、テーマのからむ様をくっきり浮かび上がらせつつ、音楽の複雑な味わいを積極的に楽しむような造りは、アーノンクールらが先鞭をつけたとも言える。

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一方、ブリュッヘンは現代楽器のオーケストラを振りつつも、自ら組織する18世紀オーケストラ、イギリスのエイジ・オブ・エンライトメント・オーケストラによる古楽器演奏にも軸足を置く。彼の演奏は、1990年代ほどには話題に上らなくなってきた。
(注:エイジ・オブ・エンライトメント・オーケストラは、直訳すれば啓蒙主義時代楽団、つまり18世紀末の楽団という意味。)
最近は録音の点数が少ないこと、またたとえば日本では新日本フィルの指揮以外では目立った動きがないこともあるが、それだけではないように思う。

ブリュッヘンは、アーノンクールよりむしろ早く、ハイドンやベートーヴェンなどの演奏で受け入れられた印象がある。

たとえば、古楽器オーケストラにしては弦楽器の中音域から低音域が充実しており、木管楽器層に名人を配して追求するサウンドは、質実剛健ながらも強く深みがある。そこに硬い音色の金管楽器が加わる。その音作りは、以前の古楽器サウンド(妙に高次倍音が強くシャラシャラいうような響き)を覆すような、しっとりした聴きやすさが持ち味だ。
実は、弦の中低域を充実させる音作りは、ベルリン・フィルを始めとするドイツ圏のオーケストラがごく普通に行っていることだ。質実剛健な響き、という印象は、実はこれが強いことでもある(ここに流麗なヴァイオリンと木管を加えたのが、1950年代〜1974年頃までのカラヤン・サウンドの特徴といえる)。

また、ブリュッヘンの楽曲設計は、古楽器の特性を活かして通常は聞こえにくかったり、よく混じらない楽器音がきわめて心地よく響くことを前提に、フレーズが活きやすい速めのテンポを選び、音楽全体が一貫して響くように心がけている。

つまるところ、彼は1950年代以降の、主にカラヤンが先導していった、楽章全体を一体成形したような演奏にこだわりがあるように見受ける。
もっと踏み込んでいうなら、ブリュッヘンの美学は1960年代に培われたものが核にあり(彼がリコーダー奏者として世界中に名を轟かせた時代だ)、それゆえに1980年代から受け入れやすく感じられたのではないか、ということ。さらに、最近の流れとはやや異なっているから、以前より引っ込んで見えるのではないか、ということ。
(念のために断っておくが、時代遅れで価値がない、などといいたいわけではない。立派な演奏なのに注目度が低くなってきたのは、こういう流れがあるからではないか、ということを感じているだけだ。)

[付記]ブリュッヘンの指揮が、カラヤンの美学に基づいているとか、同じような印象を生む演奏だ、といいたいのではない。ブリュッヘンの生み出す音楽は、古楽器の生理に基づいた短く清潔なフレージングと、金管や打楽器が存分に強奏できる音色の力強さが持ち味であり、それはカラヤン流のテヌートとレガートを強調した豊満な音楽とはまったく異なる印象を生み出す。
ただ、この二人はそれまでの古典派の演奏習慣を覆すような潔さ、テンポの速さ、明確さを持っている。そして、楽章間にまたがるテーマの一貫性を押し出し、構成が目に見えるほど鮮やかに描き出すことに心を尽くす。カラヤンのスタイリッシュさ、ブリュッヘンのそっけなさの対照的な印象とは裏腹の、こうした共通性は、1950〜1960年代に培われ、1990年代まで影響が大きかった美学にあるのではないか、ということだ。(以上、翌日に付記)

***

その1950〜1960年代については、カラヤン、ベーム、ショルティらの演奏を、CDやDVDで大量に、安く接することが出来るようになった。
そこで刻印された影響は、1990年代までくっきり届いている。その中で活躍した指揮者や演奏家はもちろんたくさんいたが、やはり初動を築いた巨匠達への注目が大きくなってしまうのは、仕方ないのかもしれない。

一方、最初からそこを踏み出そうとしていたアーノンクールは、1990年代後半から西欧楽団の王者になっていった。
1960年代からの古楽に関わる運動も、当時から一貫しているアーノンクールへの注目は依然として高い。
さらに、古楽器、古楽を含めて学んだ上で、様々な時代の楽器や弓を操る若い弦楽器奏者も少しずつ増えている。彼らはやはりお金の集中するプログラムを演奏する(まぁそうせざるを得ないのかもしれないが)。
そのためなのか、古楽、つまりバッハ以前の音楽を志すプロフェッショナルが、目立たなくなっている印象もある。(はっきり言えば、古楽は今の中年以降のものになってしまったのかもしれない、ということ……)
これも、1950〜1960年代の、レコーディングした音楽を聴く習慣が普及し、一巡して変わってきたことを意味するのかもしれない。

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カラヤンの生誕100周年、さらに彼の全盛期に起きた古楽復興運動を思ううちに、だいぶ遠いところまで来てしまった。
では、今後はアーノンクールの築いたものから音楽界が流れていくのか。
必ずしもそうではないだろう。
録音された音楽と、演奏会で聴くことの印象や意味付けが少し変わってきており、今後はもっと速い変化を経ながら、伝統音楽を聴くという行為そのものが変質していく可能性だってある。

どんな変化がくるのかはわからない。
ただ、ここ10年で、シューベルトへの評価が変わってきたことは、ヒントになるのかもしれない。
歌曲王、親しみやすい旋律、ベートーヴェンとは違い女性的、ロマン派の入口で扉を開いたのに忘れられて貧乏の中で亡くなったかわいそうな人、といった印象が先行しがちで、極端にいえばベートーヴェンやブラームスより低く見られることだってあった。
しかし、最近は晩年のピアノ・ソナタや、最後の大きな交響曲を軸にして、あの論理性があるんだかないんだかよくわからない不思議な転調(あるいは全然転調せずにテーマを提示してしまう荒技)も含めた、立体的な聴かれ方が普通になってきた。
現在のポピュラー音楽のルーツにあたるような和声が頻出するため、やや低く見られた時期もあったが、こうした琴線を揺さぶるような音を書かざるを得なかった人に、積極的に分け入りたい、という人が増えているように見える。安い値段で全集を手にすることが出来るのも、一役買っているのだろう。

つまり、20世紀を覆い尽くした、19世紀病(天才賛美、過度の感傷や感情の爆発は大切)への陶酔と反発から離れて、もう一歩引いた視点で19世紀の音楽に触れることが可能になってきたんじゃないか。
それと、音楽の聴き方が変化している(確固として何度でも同じことを繰り返すレコーディングより一度のライブが大切な意識)ことは、呼応している現象にも見えてくる。
そうこうするうちに、21世紀らしさというものが、徐々に意識されるようになっていく…のかどうか。

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コメント

翌日、念のために少し付記しました。

投稿: KenKen | 2008.05.25 16:59

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