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2008.05.18

カラヤン、再び

20世紀後半クラシック音楽界の話題をさらった指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。4月に生誕100周年を迎え、新譜やセットものが出ており、現在CD/DVDを扱う店ではフェアの真っ最中。
また、よく売れているらしい。豪華盤は当時が懐かしいオジサン世代が中心だとは思うが、廉価盤は年齢層に関係なく売れてもいるという。

それにしても、同じ生誕100周年の朝比奈隆(指揮者)、オリヴィエ・メシアン(作曲家)とはえらい扱いの違いである。
それもそうか、レコード及びCD業界は、彼がいてこそ大きな売上を維持することが出来た。いや、CDの盤の大きさ、つまり収録時間についても、カラヤンが「ベートーヴェンの第9交響曲を1枚に収めることが出来る大きさ」という意見を取り入れた、とさえ言われている。真偽はともかく、それくらいの影響力があった、ということだ。

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ドイツ・オーストリア文化圏の伝統として歌劇場からの叩き上げを起点にしつつも、二次大戦中から戦後を着々と駆け上がり、フルトヴェングラーの後継としてベルリン・フィルの芸術監督・終身指揮者に就く。さらにウィーン国立歌劇場の音楽監督にも就任。楽団員を掌握する力強さ、さらにオーケストラ音楽だけでなく、協奏曲やオペラといったソリスト重視のレパートーリーも自身の美学で貫くスタイルなども含め、「帝王」と呼ばれた。
(戦後復活したバイロイト音楽祭で衝突して以後は出演せず、その後ザルツブルグ音楽祭を立ち上げ、成功に導いてもいる。)

各楽器の音色を徹底的に磨き上げ、微細なピアニッシモと、強靭なフォルティッシモを演奏者に要求する。さらに、滑らかで長く紡ぐ旋律線から、懐の深い流れを生み出す。それを前提に、メリハリがきいた、音楽のフォルムを明確にする演奏スタイルで、非常に広いレパートリーを取り上げる。
こうして、ラジオ/テレビや、レコードなど、録音した音楽が繰り返し聴かれる世の中になることを見越した制作を、定着させることに成功した立役者となった。これがカラヤンの伝説の基盤にもなった。
一方で、自身の指揮のスタイルそのものも、流麗で耽美的と言えるくらい、視覚的な快楽を追求してもいる。また、レコーディング時は非常に正確かつ豪華な音を追求するが、実演ではむしろ、その時々の観客の空気を感じ取って、絶妙なテンポや表情の変化も得意だった。これも、完璧主義と言われる高度な合奏への要求によって、可能になったもの。

熱狂的なファンを生み出す一方で、上っ面だけの快楽原則だけに従った空虚な音響、という反発も出てくる。
それらもひっくるめて、次から次へと演奏会やレコーディングを行い、ファンを惹きつけ続けることで、答えにしていった。

晩年は、ベルリン・フィルとのいざこざが多かった。1983年、自身の推挙するクラリネット奏者の入団を巡ってトラブル。1988年にはベルリンでの演奏回数が激減していること、ギャラに関するトラブルなどから、批判が噴出。
1989年にはベルリン・フィルの音楽監督・終身指揮者を辞任。その3ヶ月後に亡くなっている。
亡くなった直後、カラヤンの弔いに関わったのは、晩年に仲の良かったウィーン・フィルだったという。

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私もご多分に漏れず、カラヤンでオーケストラ音楽入門をしたクチである。ある時期には好きになり、それ以降は少し離れている。

カラヤンが一番輝いていたのは、個人的には1950年代のフィルハーモニア管弦楽団との録音、及び1960年代〜1970年代前半のベルリン・フィルやウィーン・フィルとの録音だと思う。
フィルハーモニア管との録音は、特に面白い。当時流行していた、楽譜と直截に向き合った上で、現代的なテンポとメリハリを通す、新古典主義に片足を入れている。ただし、もっとずっと懐の深く、振幅の大きな演奏。ベートーヴェンの全集は、後の演奏とはまったく異なる。フルトヴェングラーとは違う、しかしトスカニーニのようにもならない彼の姿が、若々しく刻まれている。
ベルリン・フィルとの蜜月時代には、重低音のより深い響きを手に入れて、音楽の柄が大きくなる。これで、スッペの軽騎兵序曲のようなライトな曲から、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー、R.シュトラウスのようなドイツ19世紀の王道、さらにチャイコフスキーやドヴォルジャーク、あるいはシベリウスのような中央ヨーロッパではない地域の音楽の彩りも、彫り込んでいた。

それ以降のカラヤンは、細部への異様なこだわりが肥大化し始め、今一つ興をそぐ演奏も少なくなかったと思う(1980年代のブラームスの録音など)。
この頃はカルロス・クライバーが全盛を迎えており、また古楽に興味が向いていったため、特にカラヤンを聞かなくなっていた。

ただ、死の数年前より、音楽の作為が妙に薄れ始めた。晩年のブルックナーの録音に「おや、またこの人は変わっていくのか」と思ったものだ。もっともその頃は、亡くなってしまうとは思わなかったのだが。
病気と闘うことが増えた頃から、音楽が衰え始めたようにも見受けられる。そして、それを乗り越えようとして、あのブルックナーが生まれたようにも感じる。
カラヤンはその後、ソニーと契約して新しい録音をウィーン・フィルと出す計画があったという。どんな音楽になっていたか。新しい純化の過程が見えたのか、老醜をさらしていたのか、それはわからない。
こうした生涯は、日本人ならば美空ひばりがダブって見えてくるかもしれない。

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今となってみれば、私はカラヤンの音楽が一番好き、というわけではない。ただ、最初の頃に触れた指揮者として、思い出深い存在だ。

えらかったと思うのは、いまではクラシックに分類されにくいだろう「スケーターズ・ワルツ」、「軽騎兵序曲」といったライトな曲まで、ちゃんとしたオーケストラで豪華な録音を残したこと。
レコード会社の企画だったのかもしれないが、やるからにはちゃんとやっている。長い音楽をじっと聴けない子供でも、これなら興味を持って聴ける。実際、私も子供の頃、「白鳥の湖」などとともに聴いていた。

カラヤン全盛期は、上っ面の音楽と揶揄する向きも多かったが、逆に当時、あれほど真剣に楽譜を読み通して、正面から音にすることに勝負を賭けていた人も少ない。
でなければ、野心溢れる演奏家達を束ねることなど、出来るわけがない。わけのわからない「内面性」に振り回されることなく、響きへの信仰を吐露するような演奏だからこそ、後続の指揮者への影響も大きかった。
(私が感じた1970年代後半からの違和感とはむしろ、細部にこだわりすぎて、全体のバランスが悪くなっていったことであって、音楽が空疎かどうかとはあまり関係がない。)

もう一つえらかったのは、視覚的な側面への追求も緩めなかったこと。
音楽など聴ければそれでいい、と言えるかもしれないが、コンサートに足を運んだら、団員の登場、静粛、そして指揮者の登場から振り下ろしなど、視覚も同時に味わう。
あの流麗な音楽に見合う身体の動きを体現することで、演奏会の司祭としての勤めを果たしていた。

オペラの演出にも口を出したがり、舞台から間合い、歌、管弦楽に至るすべてを掌握したがったのも、視覚を含めたすべての音楽経験を、自らの信じる美で埋め尽くしたいという欲望からくるのだろう。
協奏曲もオペラも、まるで一つのシンフォニーのようにすべてが一体になって響く、というのは、こういう面からきているはずだ。
それは、ハマればすごいものになるが(実際、カラヤンのオペラは実に人気があったという)、外すとどうしようもなかったのかもしれない(大嫌いな人は決して褒めなかった)。

***

もう少し書いてみたいことがある。
だいぶ長くなったので、次のエントリーで取り上げることにしよう。

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