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2008.05.19

カラヤンの纏う響きと、その後

前回の続き。

カラヤンはベートーヴェンの全集を何度も録音したことで有名だし、オーストリアの音楽家としては当然かもしれない。
ただ、ベートーヴェンやブラームスといった19世紀ドイツ音楽のメインストリームより、チャイコフスキーやドヴォルジャーク、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフといった色彩豊かな曲のほうがよく似合う、という人は少なくない。ドラマティックな構成を、楽譜の構造に沿って描き出すことが得意だったから、結果的に映像的な音楽の特質をあぶり出すことになった。
さらに、磨き上げた透明度の高い弦楽器群の音色、曲の構成を明確にする演奏設計が得意だったことから、シベリウスなども非常にうけがよい。
その意味では、ドイツ音楽ならばリヒャルト=シュトラウスを得意としたのも頷ける。同様に、ワーグナーを演奏すると、これまたスペクタクル映画のBGMのように響き渡る。ワーグナーの音楽は元々そういう要素を持っているが、カラヤンの手にかかるとそれが強調されるように感じられる。
ビゼーやヴェルディのようなオペラでも力を発揮するが、この特質を嫌う人もまたたくさんいた。

***

こうした彼の演奏の特徴は、演奏会よりも録音を頻繁に聴く時代に向けられたものであり、気楽に、かつ蠱惑的に聴けるような演奏しかしない、と言われることが、存命中にしばしばあった。
しかし、私にはまったくそうは思えなかったし、今でも変わらない。カラヤンのスタイリッシュな演奏は、実演でも録音でもそう大きく変化しない。もちろん実演だと、録音よりも大きな見得を切っていたようで、彼が録音と演奏会における音楽経験をそれぞれ重視していた証でもあるだろう。
ただし、不満を持つ人の気持ちもわからないではなかった。

おそらくそのような不満を持つ人が感じるであろう問題とは、彼がチェリビダッケのように細かい表情付けよりも、全体を大きく把握できるような見通しのよさを信条としている点にあるのではないかと感じている。
このため、テンポは速めで、テーマが出てくるたびに「ほら、今テーマが来てるよ!」と指し示すように演奏させる。その際にも、旋律線の細かい動きに沿った表情付けよりも、テヌートでたっぷりとつなぎつつ、音が滔々と流れることに意識を向ける。
複数楽章の間に流れる共通のテーマが耳に入りやすくなるし、構成がより明確に感じられる。音楽全体が一体構造のような美を示す。なじみが薄い曲でも聞き取れるし、繰り返し聴いても飽きにくいたっぷりした響きも持っている。
一方、複雑な楽曲も簡明に聞こえるから、複雑な豊かさを生のままに味わいたい人には、加工食品のような味付けに感じられるかもしれない。人によっては、彫り込みが浅いまま、するすると流れるだけに聞こえるのではないか。

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ただし、こうしたカラヤンの特質は、彼個人ものであることはもちろんだが、1950年代〜1960年代の特徴と合致したもの、と捉えるほうがしっくりくる。

1945年に第2次世界大戦が終わり、ドイツ、イタリア、日本の敗戦に関する様々な処理が行われた。ナチスに担ぎ出されたワーグナーの音楽も控えられ、バイロイト音楽祭は中断した。
1950年代に入ると、敗戦国も戦後世界の秩序構造に組み込まれ、物資も文化も復興し始める。特にドイツと日本の復興は激しかった。一方、戦後世界をつくり出したアメリカとソ連は、強大な力を謳歌する時代でもあった。

戦後の窮状を何とか乗り切ったウィーン・フィルも、プロイセン人のオーケストラだったベルリン・フィルも、それぞれ取り戻した自信ある響きを伝道してくれる人が必要だった。
そんな中、栄光あるドイツ=オーストリア圏の音楽の代表として活躍できる文化的な英雄にぴったりだったのが、カラヤンの明解な音楽設計、また類い稀なイベント処理能力だったのだと思う。
それが、1960年代に大きく花開き、同時にレコードとラジオ/テレビというメディアを通して、音楽をばらまくことにつながっていったのだろう(注:音楽をばらまく、というのは悪い意味で使っているのではない)。

これは様々な分野で起きている。クラシック音楽の世界でも、前衛音楽が猛威を振るったのは同じ頃であり、また古楽器を使ってバッハ以前の音楽を復興させる運動も1950〜1960年代に本格化している(アーノンクールやレオンハルトの活動がレコードに刻印され始めたのが1960年代)。前衛美術が注目を集めたのも同じ頃。
また、アメリカではジャズの世界でビ・バップの実験が始まり、モダン・ジャズとして1960年代のクラブとレコードを席巻する。同時に、エルヴィス・プレスリーのロックンロールは、1960年代にビートルズとローリング・ストーンズを呼び出して、世界中のラジオ/テレビ、またレコードを埋めていった。

戦後の安定期に入り、枯渇していた楽しみを求め尽くすように、様々な文化が一斉に花開いた。
みんなが、大きな経験を求めた。心に衝撃を覚えるような何か、しかし自分達からあまりにかけ離れすぎていない何か。
その精神を体現していたのが、カラヤンの音楽だったはずだ。
1970年代も半ばを過ぎたあたりから、彼の音楽が必ずしも注目を持って受け止められなくなったことも、このあたりに関係しているように思う。

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カラヤンの流れるフォルムと構成感という特質を強く意識しつつ、より細やかな音楽を作り出そうとしたのは、彼の後継としてベルリン・フィルの常任指揮者に就任したクラウディオ・アッバードだと感じている(以後、日本の多くの表記に従い、アバドとする)。

カラヤンにその才能を認められていた彼は、高度な技量を持つベルリン・フィルの奏者を、さらに緊密に、室内楽的と言えるくらい精緻なアンサンブルに練り上げる。その腕を背景に、カラヤン的な、無限旋律にすべてが回帰していくような響きではなく、モチーフからメロディが構成されていくさまが透けて見えるほどに、各音の表情を緻密に扱う。音楽の構成は、その論理的な構造からしっかり浸透していくように響かせる。
圧縮して言えば、音楽がより理知的に響くようになった。ベルリン・フィル全体の合奏精度も、カラヤンの頃よりさらに精緻になった(本当にすごいことである)。

これにより、マーラーやヴェーベルン、ベルクらの音楽は非常に美しいものになったし、ワーグナーだってマーラーのような緻密さが前面に出てきた。
逆にいえば、巨大なスケール感、有無も言わさず圧倒し尽くすような音の蕩尽、というものとは無縁になる。真面目で、スキャンダラスな空気感もない。

アバドはかなりがんばっていたと思う。
しかし、カラヤンの死後、ほとぼりが冷めてくると「あのような大きさがない」「音楽がこじんまりとしてる」といった不満がちらほら出てくる。そういった聴き手の不満はおそらく、カラヤンだけではなく、ベルリン・フィルのソリスト級の各奏者が行う室内楽などにも向けられていたかもしれない。

音楽そのものは、より前進しているはずなのだ。
でも、大きさが足りない、と言われてしまう。そして、カラヤンはえらかった、とさえ言われる。しかも「アダージョ・カラヤン」というCDが、空前の大ヒットを記録してしまう。死せる孔明なんとやらである。
ガンを患ったこともあるのだろう(音楽監督・常任指揮者とはものすごい激務だと聞く)、アバドはベルリン・フィルの指揮者を降りた。

現在の音楽監督・常任指揮者はサー・サイモン・ラトル。
カラヤンの直接的な影響を濃厚に受けておらず、古楽器オケや最新の学説にも詳しい彼は、新しい地点で、より大きな音楽を目指しているようだ。
あまりに違う音楽性、しかも独自のスター性もあわせもつラトルは、上々の滑り出しで人々に聴かれている。
ただし…個人的には曲の相性による出来不出来がとても大きいと思う。そして、そこがむしろ率直でおもしろい、とも感じる。

アバドはその後、自分が深く関わるルツェルン音楽祭の管弦楽団を率いて、すばらしいマーラーなどを響かせている。ガンから生還し、とても自由で、かえって幸せなのかもしれない。

***

しかし、カラヤンの後に表に出るようになった、フレーズの中の一音一音を緻密に扱い、より濃厚な表現を目指す姿勢は、もはや現代の主流になっていると思う。

ハーディングやパーヴォ・ヤルヴィといった現在中堅の指揮者は、ものすごく豊かなニュアンスで旋律を描き出しつつ、音楽の強固な一貫性とスピード感を同時に獲得するような、新しい次元の演奏にさしかかっている(ある意味、ラトルよりもずっと過激なのに、響いてみるととてもしっくりする)。
それはヴァイオリンやピアノなどでも同様。ヒラリー・ハーンや諏訪内晶子らのヴァイオリンは、バッハだろうがシベリウスだろうがモーツァルトだろうが、非常に細やかに旋律を彫り込みつつも、音楽の前進する力は失わないように心がけているように聞こえる(好き嫌いは別にしても)。

往年の巨匠の演奏は、実はCDやレコードではいまだに売れ続けている分野だ。
一方、新しい演奏家のCDは、あまり売れないらしく、以前より点数が減っている。

カラヤンは往年の名演奏家に加わりつつある、というより、もうとっくに加わっている。音は豪華、録音も上々、かっこうの売れ筋商品。
ただし私には、1960年代の、熱狂の時への追憶が、その周りにどこか漂うように感じられることがある。それが悪いわけではないが、新しい演奏家達のCDがあまり受け入れられないのはつまらない、さびしい。ことは一般オーケストラだけではない、古楽器や室内楽などは特に点数が少ない。
では、どうすればいいのか。何かもう一度大きさを感じさせることが必要なのか、いやそれではないようにも思う。
すぐにわかる問題ではない。ただ、とても気になる。

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