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2008.08.31

小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」読了

気がつくと8月がもう終わろうとしている。下旬になってから妙に気温が下がり、でも湿度だけはあるので、身体が困っているみたい。

さて、小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」、3回集中連載にて完結(文學界9月号、8/7発売)。
いや、そんなことは既に触れた
小川洋子の変化?(文學界8月号)」(7/16)から印象が変わったかどうか、である。

後に「リトル・アリョーヒン」と呼ばれることになる少年は、唇の上下がくっついて生まれた。医師は唇を上下に分かち、足りない皮膚を脛から持ってきた。このため、口のあたりに脛毛が生えることになる。容貌ゆえに友人も少ない。祖父母と弟との地味な生活の中で、少年は廃車となったバスを住居にする男性(元運転手、今はバス会社の寮管理人)と知りあい、チェスの手ほどきを受ける。
少年がマスターと呼ぶようになるその男性は、少年がチェス盤の下にもぐらないと思考できない性質も問わず、チェスの精髄を穏やかに伝えようとする。マスターは無類の甘味好きであり、それゆえバスの運転手が勤まらないほど巨大になったため、寮の管理人をしているのだった。ある日、バスの中で息絶え、それ以降、少年は成長を拒絶する。のみならず、大きくなることへの悲劇がすり込まれる。
マスターのチェス盤をなんとか持ち出し、それ以降はチェスが少年を導いていく…チェス盤の下に潜り込む彼の、唯一のコミュニケーションとして。
(まぁあとはお読みいただきましょう。)

少年がチェスの手ほどきを受け、己を見いだしていく話と聞けば、もちろん「博士の愛した数式」を思い出すだろう。
だが、あのようなハートウォームなハッピーエンドは、氏の小説では少ない(あれを好きになった人が他の作品を読むと驚く、ということは少なくない)。「博士の愛した数式」は、現実に寄り添った静かな描写の末に、博士との暖かくファンタジックなやりとりに思い切って飛翔するラストがもたらす感動であり、それは透徹した哀しみとおかしみを見つめてきた作者だからこそ描けた世界とも言える。
今回の作品では、氏独特の、むしろ本道とも言える世界が、これまで以上に濃縮されて展開する。読みごたえは言うまでもなく、じゅうぶん。
成長を拒み、盤の下に潜り続ける彼が、よくある胎内回帰的な印象に集約されないのは当然であり、静かなラストも詩のようだ。

リトル・アリョーヒンと呼ばれることになる少年、その人を描くことは、彼が対話の手段とすることになったチェスを描くことになる。ただし、チェスの対戦そのものを描けばいいというわけでもない、小説は事実の羅列やその解説を書くものではないのだから。
時折出てくる具体的な駒の運びを、比喩によって、その時にもたらす印象とともに描き尽くしている。まさに正確な比喩ゆえの効果が随所に見られる。

それでも、何かほんの小さな一点が欠けているような気もする。
再読しつつしばらく考えていたのだが、思考や駒運びの比喩を重ねていくがゆえに、その場の気配、たとえばそれを伝えるような音や息遣いが、意外なくらい少ない。ガラス越しで、世界が展開するように感じられることもある。
幼年期の様々なエピソードは生々しいくらいなのに、チェスの描写は少しく具体性を欠く。駒を置く音そのもの、あるいは機械の出す音(機械については本編参照)、息遣いの音といった気配、あるいは人によって繰り出す言葉や行動のリズムのようなものは、思考に集中するにつれて消えていき、抽象度の高い詩そのものになっていくのだから、不要なのかもしれない。そのためにこそ、緻密でリズムある比喩が多用されている。
ただ、現実の音が生み出すリズムが薄くなるとともに、リトル・アリョーヒンの世界と、読者をつなぎ止める何かが、これまでの作品と比べると少しく薄いようにも感じてしまう。
これがおそらく、私が感じていた「小川洋子氏の変化?」の中身だ。

わかっている、この作品自体はじゅうぶんにすてきだ。
私がいうのは、ないものねだりでしかない。
現実の音を描写に加えればよかったのかといえば、そういうものでもない、作品とは各要素が有機的な関係を持っているのだから、余分なものを混ぜれば壊れてしまう。

それに、このようなチェスの描写の発見こそが、作者にとって今回の最大の挑戦だったのかもしれない。
そう思えば、むしろ慎重に耳を澄ませ、あえてこのような文を選んだ作者の息遣いも伝わる(ような気がする)。あっけなく畳まれていく最後も見事だ。
変化というより、大胆な挑戦ゆえに、トーンも自然に変わった、というのが正直なところだろう。

ここに書いたのは、相容れにくい要素を大胆に描いていく手際に驚嘆しつつ、「それでも」と勝手に湧き上がる感想でしかない。
読めば豊かに広がる世界があることは、間違いありません。

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