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2008.08.17

小川洋子の前に、水村美苗

読みたいものに、時間がかかる月。

小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」(文學界9月号)が、集中連載の第3回で完結を迎えているが、まだ手をつけたばかり。

水村美苗の特別評論「日本語が亡びる時−−英語の世紀の中で」(新潮9月号)を、じっくり読んでいた。

アイオワでIWP (International Writing Program) に参加するため、バスに乗り込むところから始まる。IWPとは、主催のアイオワ大学が様々な国々から小説家や詩人を招待し、「アメリカの大学生活を味わいながらそれぞれ自分の仕事を続けてもらおうという、たいへん結構なプログラム」というもの。生活費の心配もない。日本人は水村氏だけ(来年は島田雅彦の参加が決まっているという)。
自己紹介の会話、参加の動機(自律神経失調症の転地療養にならないかという淡い期待)、到着してからの参加者たちの様子。水村節満載の、むしろ小説のような導入だ。
参加者の様子からすぐに、様々な言語で、様々な地域で、富む国でも貧しい国でも、ほんとうに多く書かれているという感嘆に移る。やがてそれは<自分たちの言葉>で当たり前のように書くことの意味へと思考が向く。英語が<普遍語>になりつつある今より前、ヨーロッパ(というより世界)ではフランス語が<普遍語>だった時期があり(もちろんそれ以前はラテン語、アラビア語、漢語などが文化圏ごとに普遍語だった)、それが凋落する過程に触れる。
そして、書き言葉の成立に触れる時、さらに近代文学とは国民国家と国民文学の成立であることに話が及ぶ時、読み物から論に、進んでいる。
パリでの水村氏の講演内容は、論に転調する際に、全文引用される。氏の作品「私小説 from left to right」の核心に触れ、そこが転回点となる。論文でも小説でもない、評論が作品であることを見せつけ、しかし論理は踏まえていく。妙技だ。

だが、これからというところで、すなわち「<国語>の祝祭の時代が終わってしまった今」、「<叡知を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとはしなくなってきている」ことを指摘したところで突如、流れが止まる。
新潮掲載は3章まで。この秋に筑摩書房から刊行予定で、全7章のうちの冒頭3章が掲載分、とのこと。

読書が好きな方なら、少なくともこの冒頭3章がおもしろくないはずはない。
同意するにせよ反発を覚えるにせよ、全7章がどのような運びになっているか、気にならないはずもない。

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