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2008.09.17

因縁の二人、宮崎駿と押井守

「スカイ・クロラ」(押井守監督)を観たことは触れたけど、先日やっと「崖の上のポニョ」(宮崎駿監督)も観てきた。

両作品ともヴェネツィア映画祭の公式招待作品となったが、賞はとれなかった(世間が騒いだのは、日本びいきのヴェンダーズ監督が映画祭の委員長だったからだろう)。
けれど、「ポニョ」は歓びをもって迎えられたという記事がいくつも出ていたし、「スカイ・クロラ」も注目されていたそうだ(その割には、エンドロールで席を立つ人も多かった、という記事もあったけれど)。

1984年、「風の谷のナウシカ」(宮崎)と「うる星☆やつら 2 ビューティフル・ドリーマー」(押井)でそれぞれ注目を浴びた二人は、20年以上にわたって傑作を何本もものにしてきた。日本のアニメが世界中の映画界から注目を浴びるようになったきっかけの一端は、間違いなくこの二人にもある。
とはいえ、この二人、どちらかといえば、アニメという世界では鬼っ子なのだと思う。いわゆるフツーの連続テレビアニメ、ことにラブコメだの萌えだのロボだの、マンガ的パターンが入ったものは作らない(押井は「パトレイバー」までは作っていたけれど、これもどちらかといえばフツーじゃないし)。
映画館での観賞を強く意識した映像表現と音楽で、宮崎は圧倒的な生命力を(せめぎ合いも含めて)肯定し、押井は日常生活のループからふいに割ける瞬間にこだわる。

たとえば、海外のオタク達は日本同様に、日本のテレビアニメやテレビゲームそのものが大好きだ。宮崎や押井も観るが、それ以上にフツーのテレビアニメ(に観られるマンガ的パターン)も喜んで観る。
だが、宮崎や押井は、日本のフツーのアニメを拒絶したところで成立する世界を提供し続けている。映像作品としての問題意識の置き所であって、どちらがえらいとかいう話ではないが、この二人の作品に触れれば、独特の時間が流れていくことはまず間違いない。

***

[以下、少しネタバレあるので、未見の方はご注意を。]

スカイ・クロラ」は、実に深々とした120分だった。
原作の森博嗣は個人的に好みではなく、小説をまったく読まずにひょいと映画館に入ったが、杞憂だった。
(世界・人物などの詳細は公式サイトを参照のこと。)

平和が実現された世界で、ショーとしての戦争が行われている。そこに参加しているのはキルドレ。撃墜されて死なない限り、年を取らない。キルドレ達の、繰り返される弛緩した日常と、戦闘機で撃ち合う戦争(しかしショー)。
赴任したユーイチを迎える小規模な基地は、数機で戦闘を繰り返している。くっきりした様式美のような戦闘パート(それゆえショーなのだとわかる)は、腹の底にくる爆音が印象的。
対比となるひどく緩んだ日常は、すばらしいばかりの静けさ。人形浄瑠璃のような絵もいいが、とにかく音がすばらしい。
静かな日常には、上官スイトの妹がやってきたり、ショーとしての戦争基地を見学に来る人々の案内をしたりする。しかし、戦死者が出て「ティーチャー」なる特別な存在がわかる頃、映画は転調していく。
ヨーロッパの大規模戦線に投入される。それまでの小規模な基地ではみられなかった、圧倒的な数の戦闘機が次々に離陸していく。爆音の静謐、あるいはマハーバーラタを連想させるような、妙な昂ぶりの詩情。そして、容赦ない、過酷な戦死も描かれる。特に凝った映像ではないのだけれど(もちろん金はすごくかかっていることはわかる)、大編隊になってもそれまでの描写リズムが保たれ、過酷ながらショーであることはやはり実感されてしまう。
戦線が膠着状態となり、帰還する。戦線で知りあった新しいパイロットを伴って。そこから、繰り返される日常の裂け目があらわになっていく。

それにしても、実現した世界平和と、ショーとしての戦争とは、設定として現実的なのだろうか。
浮遊感漂う独特の設定を、これでもかと紐でくくりつけるように続く、日常と戦闘の交代。退屈と感じる人もいると思う。私は全体をくるむような静けさを含めて、じっくり観ることが出来た。それは、この荒唐無稽な世界観を、よくぞここまできちんと形にしたものだという賛嘆でもある。
あ〜、映画を観た、と思える一本。ただし、大作としてではなく、フラリと観るのに適した映画。そうして、見終わると時々、シーンがフワ、と思い出されてくる。

一方、この映画は押井が自ら「若い人に伝えたいことがある」と語っている。
そのメッセージは「繰り返される日常の何が悪いのか、無駄とわかっても挑む瞬間のどこが悪いのか」という、押井守が専売特許のように繰り返してきたもの。むしろ、「ビューティフル・ドリーマー」に原点回帰した、といってもいい。

でも、若者はこのメッセージに何か感じ入るだろうか。
今の若者は、結構厳しい人間関係サバイバルを目にしているから、「んーなことたぁ、わぁっとる、それでどーするかが問題なんだろうが。それを描かないでメッセージって何? 答えを出す勇気がないもんが、これ以上物語を作るな。だいたい、若者=キルドレってあたりで思考停止が明白」と怒るんじゃないかな。(逆に、それでこそ若者、だと思うけど。)
ただし、物語や小説や映画は、世界を味わってこそ上等。あんまりメッセージのことは気にせず、音と絵にひたるのが一番。
それより何よりこの映画は、もうちょっと年を重ねてきた30代後半からのほうが、感じ入るんじゃなかろーか。(参考:沢木耕太郎のレビュー

とにかく、いろんな意味で日本映画の伝統を背負っている一本。

***

宮崎駿「崖の上のポニョ」はまた別の意味での原点回帰に見えてくる。

画面上の様々なオブジェクトが、とにかく動く。安定した原形など留めないように、どんどんゆらゆら動く。水の中、というだけではない。人が力を入れたりする瞬間も、表情が不細工になる瞬間などまったくおそれず、グワッ!と変化する。
ここではとにかく、すべてが変化していく。あらゆるオブジェクト(モノ、人、生き物、自然現象)には精霊が宿っていて、その意思からすべては動いてしまい、とどまることを知らない、とでもいう風情。
特に、ポニョが魚から人となり、台風に乗って宗介の元にやってくるシーンは圧巻。開いた口がふさがらず、そのまま笑うしかない。
一方、アンデルセン「人魚姫」を下敷きにした筋書きは、一直線で単純明快。

それでも、むしろそれだからこそ、120分を一息に見せてしまう。
すべてのアニメーションの原点に帰るような、動きこそすべて、とでもいうべき、最強かつ最高の力技。
「ナウシカ」以前の、「未来少年コナン」や「ルパンIII世 カリオストロの城」にあった宮崎走りが、あちこちに登場する。おかあさんの運転など、それってありなの?!とびっくりするくらい。

宮崎駿は「オレは動かしたいんだー、命をみたいんだー、オレにはそれしかないんだー!」と叫んでいるようであり、またそこから(凶器にもなりかねない圧倒的な)生命力の肯定が呼び覚まされてくる。
映画、アニメ、アニメーション、映像作品といった枠を飛び越えて、宮崎駿という一つのジャンルになった(黒澤明らがやり遂げたことであり、そこに連なっている)。その最前線はやはり、動きなのだった。

しかし…
これはすてきな映画ではあるけれど、筋書きを思うと、もっと短いものでみたかった。
実際、私が映画館でみたとき、大人は見入っていたが、子供たちはちょっと退屈そうにしていた。

むしろ、15分〜30分の短編4本とか6本でもよかったのかもしれない。可能ならテレビアニメとして放映するのもいいかもしれない(無理だろうけれど、書いてみる)。

***

この2本は、日本のアニメにおける極北なのだろう。
誰もがこんなものを作りたいと思わないだろうし、この二人それぞれが醸し出す独特の重力場がある。すばらしいことだ。
映画としては、個人的には「スカイ・クロラ」が気に入った。映像表現としての底力に感じ入るのは「ポニョ」だ。

けれど、どちらも有無を言わせぬ圧倒的な何かには、スレスレのところで触れていないもどかしさもある。
こうなると、もう一本みてみたいよ、と身勝手なことを思ってしまう。

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