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2008.09.06

時空をフラットにする時代に

過日、「スカイ・クロラ」を観てきた(押井守監督作品)。
(「ポニョ」はまだ観ていない。)
実にたっぷりとした、濃厚な120分だった。あんなに間が長いのに、退屈しない(ただし、人によって意見が分かれるはず)。
いろいろ思うところはあるが、キーワードは「人形浄瑠璃」「すばらしい音響」「爆音の静謐」であり、「押井の原点回帰(ニルス的な意味ではなく、ビューティフル・ドリーマー的な意味で)」であるとともに、「良くも悪くも永遠の中二病」とも言える。
ヴェネツィア映画祭の結果が出るのは、もうじき。この間が、様々な国の人々から、どのような印象で語られるのだろう。結果が出てから、また書いてみたい。

***

何かあればググる、(まぁGoogleじゃなくてもいいんだけど)検索で様々なことが引き出せる、それが当たり前の世の中になった。
数年前まで、インターネット以前のことは図書館に行ったほうがいい場合もあった。
ところが最近は、誰かが何らかの形で古い書物や資料にも感想などを残していることも増えている。図書館に行く必要がある場合でも、検索してから行ったほうがいいくらいになってきた。

検索して出てくるのは、様々な意見だったり、raw dataそのものだったり、まとめだったり、いろいろだが。
インターネット以前と違うのは、raw dataや元の資料へのアクセスが、圧倒的に楽になったこと。
このため、ちょっと調べて、うまくいけば著作権を問われない様々な資料に当たることも可能になってきた。
そういうものを膨大に読み込んでいけば、大学などのアカデミズムな場に所属しなくても、知識を得ることは可能になりつつある。
ただし、それがあるからと言って、何でもすぐに読めるし、読めばわかる、とは限らない。

インターネット以前は、膨大な資料と書物の山に囲まれるのが常だった。
ある事柄について考えるとき、様々な時代の人たちが、どういう文脈で言葉を使い、どう読み取るべきかも含めて調べることが大切だ、ということ。これは、自然科学であっても、人文学であっても、基本的には変わらない(もちろん細かいメソッドは変わる)。また、それなしにいきなり意見を言おうとしても、共通の了解がないから成立しない、ということも意味する。
書物というアナログなブツゆえに、最初から最後まで読まないと当該箇所がわからないし、当該箇所だけを拡大解釈していないかを、読み通すことで自然に調べることができた。知識や思考が、流れや、面として入ってくる、とも言える。

インターネット以降は、資料を検索して探し出した上で、当該資料からキーワードの箇所だけを拾い読みすることが可能になった。書物の索引で拾うのとは、比べ物にならない精度で。
しかし、それだけを行っていくと、点としての知識が入っていくことになる。
学者を目指す人なら、専門分野についてはこういうことはないのだろう(と思いたい)。ただし、専門でないことについて検索すれば、点としての知識を入れることになるかもしれない。

一方で、様々な資料や知識だけでなく、それを読み込むための言葉の文脈などは、学会や業界団体などの専門家集団により、決まっていくことが多かったし、今でもそうだ。
そこでは可能な限り、論理的に決められていくわけだが、政治性が皆無ということもまずない。
ただし、書物や手紙など、アナログなツールを使っていた頃は、いきなり素人が資料にアクセスすることもなく、様々な専門家同士の議論を経て、手ごろな入門書により、ほぼ了解されている知識や文脈を知ることになった。

インターネットにより、raw dataから入門書的なまとめ、専門的な議論まで、あらゆる種類の資料に一気にアクセスする時代においては、時間や時代や空間(と知的所属階級)をフラットにしてくれる。これは利点である一方で、知識を読むための了解事項や文脈なしに、資料に触れられるようにもなった。
そもそも、検索という行為は、大きなものから点を見つけ出す行為だから、そのことの当否を問わないのは当然だ。
ただし、いくら「資料に書いてあるから」とは言っても、そこに書いてあることをどう読むかについて、時代や分野に関する文脈を無視して扱うことは出来ない。ここがバラバラになってしまうと、お互いに何を理解しあい、何を誤解しあっているかわからないまま話をする(あるいはケンカをする)ことになりかねない。

***

様々な立場の人々が、いろいろな知識や思考を出す時代になったのだから、その時代にあった、しかも多くの人が了解しやすいメソッドがいる。
おそらく本来の意味での、インターネット活用を含むコンピュータ・リタラシーとは、そういうものであるはずだ。
そうして、それはMS-Officeの上手な使い方、Googleでうまくキーワードを指定するコツ、HTMLのきれいな書き方、Wikiのような編集ツールのコマンド、といった事項だけではない。
掲示板などで流れた様々な情報、さらに書籍・雑誌なども含めて、うまくまとめサイトに落とし込む方法、さらに継続して運営する心得とコツ、などのほうが重要なはず。

…なんのことはない、従来、出版やアカデミズムな場において行われていたことを、インターネット上でどううまくやるかに近いわけだが。

事典/辞書といい、入門書といい、必ず編纂者/編集者がいて、凡例や編纂者の見解があり、それを了解しつつひもとくのが普通だった。つまり、視点と立場を明示した上で、それに沿って構成されるものだった。百科事典であっても、それは同様。
名無しや匿名が大量に言説空間を作る現在、視点も立場も何もかもフラットに入り乱れる時、インターネット上でもそれが可能なのだろうか。
Wikipediaはすてきな存在だが、難しいのはここだろう。しかも、こういうものが複数存在し得なければ、比較によって読み手が取捨選択する機会も減っていくことになる。

GoogleやYahoo!、Wikipediaなどがすごいサービスを提供し続けているのは間違いないのだが、送り手にも受け手にも高度なリタラシーが求められる時代は、これまでなかったんじゃないか。
でも、王制から民主主義制への移行においても、同様だった(その頃は出版や放送が大きな役割を担った)。だから、飛行機による移動の加速と、インターネットによる時空のフラット化が進む今においても、もっと多くの人々が流れ込んで発言しあい、調整していく過程で、さらなるリタラシー向上が進む。少なくともそうであると信じている。
ただし、それが英語中心に進む世の中が、果たしていいのか。また、一つの企業がほぼ独占的に仕切る状態になっていいのか(とはいえ、リソースが大量に束ねられるからこそ、便利であるのだが)。
すぐに結論が出ない。でも、時々考えて、メモを残していきたいことではある。

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