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2008.10.21

わかる、への一つのとらえ方(2)

「わかる=作ることが出来る」というとらえ方について、書いた

その際、あえてこうも書いた。

たとえば工学畑の人は、こうとらえることが多い。

そして、特に文学や経済学を学んだ者には、あまりなじまない考え方かもしれない。

このあたりの違いが、文系/理系の間で齟齬が生じる時の、一つのパターンのように感じる。

ただ、私はいわゆる文系/理系の違いが、その人の根幹そのものであるとはまったく考えていない。
もしもそう感じるなら、いわゆる「文系」や「理系」に対して、過剰適応した結果なのではないかとさえ考えている。

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たとえば、文系学部に関することだけを考えて学生時代を過ごした場合、理工学部の中では、理学で数学などを扱い、工学部で機械工学、電気工学/電子工学などを扱うこと、またその違いなどは見当もつかないかもしれない。
理工学部といっても、数学を中心に学ぶ場合は、現実世界に応用可能な技術ではなく、抽象的な数の世界を考察する時間が多くなるだろう。文学部で哲学や詩歌を専門に学ぶ場合、歴史学や社会学のように実地で役立つことよりも、論理や美に身を捧げる時間がずっと長くなる、といったイメージか(たとえなので、拡大解釈せぬように、以下同様)。
同じ理工学部でも、機械工学や電気工学/電子工学などに学ぶ場合は、実際に稼働する技術の基礎を研究することになる。もちろん理論的な背景はきわめて重要だが、実地で動かないものはお話にもならない。臨床心理や言語治療を学んで、患者の役に立たなければあまり意味がないのと、少し似たイメージか。
(現実の研究は、基礎と応用といった具合に真っ二つに分かれるものでもない、ということもある。念のため。)

現実に効果をもたらす技術として確立し、製品への応用を可能にすることが研究の基本にあれば、なんとなくとか、できそうに思う、といった曖昧さは排除していく必要がある。
それが習慣になれば、「わかっていれば、作れるはずだ」という思いも出てくるだろう。

それでは、コンピュータの基礎原理を明文化したアラン・チューリング(1912〜1954)の考案によるチューリング・テストに合格したプログラムは、本当に人と同じように考えて話しているのか。
もちろんほどなく、哲学者ジョン・サールの提唱する「中国語の部屋」という反論が出たが、この件についての明確な解答はまだない。

このように情報を扱う学問が理系と文系の双方にあり、接近領域は広がる一方でありつつも、個別の学問分野ごとに研究されることが多い。こういう世の中において、共通の教養が減り、文系と理系の分別と過剰適応が進みすぎると、かえって研究のペースが遅れるんじゃないかという気もしてくる。

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ここまで極端な問題ではなくとも、たとえば、なぜ日本で生まれた技術が世界を席巻しないのか、かつてのAV機器の時代には出来たのに、という意識をもったとする。
日本はよいハードウェアを作るのは、クラフトマンシップ/匠の技から優秀だが、ソフトウェアを生み出すのは苦手、といった解答が引き出されることを、時折見受ける。

しかし、インターネットの研究において、1990年代の日本のWIDEプロジェクトの貢献度は低くない(IPv6の成果には日本人研究者の力があった)。XMLの誕生にも日本人が関わっているし、Rubyのように影響力のあるプログラミング言語も生まれている。
数学において多くの日本人研究者の貢献があるように、日本人は決してソフトウェアが苦手なのではない。

おそらく苦手なのは、本気でそれをパッケージングして、世界に広める、伝道していくことだろう。基礎研究は学会という場で論文を発表すればどうにかなるが、直接目に見えにくいソフトウェアは、伝道に力が必要になる。
インターネットやXMLは、内外の優秀な研究者が協力しあっており、インフラ発展の上流過程にいたのだが、OSパッケージのような目に見える形がないため、成果が見えにくい。ただし、インターネットブーム到来とともに注目を浴び、日常の通信を支える技術として、知られるようになった。
Rubyはそのインターネットで公開され、開発者コミュニティが内外に誕生した。そうしたファン達が伝道師となり、Javaよりも軽く改修しやすい場面に適切な言語として、広まっていった。
伝道の方法があり、コミュニティが形成されれば、おそらく十分に可能なはず。

ここに日本の企業が強く関与しにくいのは、おそらくその業界の慣習や、企業文化に過剰適応する人を生み出すメンタリティが強いから、というのが本当のところじゃないかと、最近よく考える。
文系と理系でコースを分け、経営は文系出身者がみて、理系は技術に集中する構図は、業界の方向性がはっきりしているときにはうまくいくだろうが、変化の激しい時期には難しくなる。

「要するにこれは何が出来る技術なのか」という問いだけでは、開発された技術の神髄はわからない。その分野に分け入って、なぜそのような手法や技術が使われているのかを考え、問題点を把握し、また何が解決されるべきなのか、といった方向性の判断が重要になる。
そこでは、文系や理系といった区分はむしろ関係なく、専業特化や先鋭化を望むのか、より俯瞰しつつ方向性を打ち出していくのか、という役割分担の違いしかない。そして、こういうことを踏まえながら、新しい製品を伝道していくのがおそらく、本来の意味でのマーケティングなのだろう。
そこに本気で乗り出せるかどうか。ここが、米国発のソフトウェアが世界を席巻する一方で、日本発はなかなかそうならない理由の一つなんじゃないか。

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ノーベル賞を物理学、化学の両方で日本人が受賞して大騒ぎ、今後の教育のあり方は、などという話がよく出てくるが。
むしろ、理系文系の垣根を取っ払った、学ぶとは何か、わかるとは何かを真剣に考える姿勢こそが大切に思える。そして、そういうことを考えるようになれば「おもしろそうだから理系をやってみる」という人が増え、理系不足の嘆きがむしろ解消されそうにも思う。

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