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2008.10.31

ニケ指揮、ル・コンセール・スピリテュエルの東京公演(2)

前回の続き]

ところで前回、「水上の音楽」第1組曲の冒頭で、思わず微笑みが浮かんでしまう、と書いた。
より正確に言えば、胸の内の真の感情は泣き笑いだった。楽想と緊密に結びついた演奏のあまりの見事さ、それゆえに生じるはかなさに、うれしくも物悲しくなり、微笑みながらも涙をこぼさんばかりだった。
彼らによるCDを数えきれないくらい聴いてきたのに、こんな気持ちになったことはなかった。いや、演奏会に通っていて、10年に一度あるかないか。
そうして鼻水をこらえながら掌を口元に寄せ、耳を澄ませるうちに、微笑みが支配的になった、というのがほんとうのところ。

今回の演奏会を「事件」だと、ファースト・インプレッションで書いた
その意味は、規模の大きさや祝祭性だけにあるのではない。この滅多に経験できないなにものかにこそ、あったのだと思っている。

いや、話を急ぎ過ぎてはいけない。
響きの華であった金管楽器や打楽器にも触れておこう。

***

多くの聴衆の目当ては、ホルンとトランペットだったはず。

ホルン奏者は、ベルに手を突っ込んで音程を矯正したりせず、文字通りナチュラルに吹く。
私は当日に席を確保したため、右翼のトランペットはあまり見えない席だったが、時折身を乗り出していた。すると、右手と唇だけで楽器を支え、左手は使っていない(奏者によっては腰に手を当てる)。17〜18世紀の絵画そのものの構図だ。

「水上の音楽」第1組曲の2曲目。ホルンの9人がベルアップしてトリルを鳴らすと、響きは急に豊かになる。野趣に溢れ、素朴で濃い、料理で言えばジビエのような印象。森の中から響く狩猟の合図だ。
「水上の音楽」第2組曲で加わったトランペットは、まさしく金の輝き、しかも潔い。
ニ長調の和音が鳴るだけでこんなにかっこいいのはなんでだろう。

***

今回の演奏はCD同様、通常の古楽器演奏と異なり、楽器に指穴を設けていない。当時の楽器をそのまま復元すれば、こうなる。
ただし、それでは現代人の耳にはとても奇異な、つまり弦楽器とまったく合わない音程になる。そこで、通常の古楽器演奏では、楽器に指穴という細工を施して、弦楽器の旋律的な音程に合うようにする。
それは、音色やバランスは当時の様子を考慮した演奏になっているが、音程の感覚は旋律線を指向した現代のままである、ということ。

ニケとコンセール・スピリテュエルは、そこに一歩踏み込んだ。
CDで聴いても、確かに弦楽器と木管、ホルン、トランペットは、それぞれ別個の音程になる瞬間がある。かなり過激かつ刺激的な響きだ。
しかし、主和音、とくに属音→主音への解決によって導かれる時、なんともいえない華やかさが生まれる。ミーントーン調律により、まったく濁りのない長三度になるからだ。

そこに注目して聞き直すと、弦楽器も決めどころでミーントーンを採用しているし、木管楽器は金管と合わせる時、弦と合わせる時で柔軟に音程を変えている。
プログラムによれば、オーボエも右手人差し指の指穴が大小二つの穴ではなく、一つの穴だけの楽器を複製している(当時の楽器には、大小二つの穴にすることで、半音の制御がラクになっているものがあるにもかかわらず)。
これにより、奏者がより自由に音程を制御できる、つまり、金管や弦楽器の音程の状況に、対応しやすくなる。

***

とはいえ多くの部分で、弦楽器、木管、ホルン、トランペットごとに、個別の音程感覚で演奏されていることには変わりない。
それを実演で聴くと、印象はまったく変わる。

まず、目前で演奏されるため、音が立体的に響く。
それだけでなく、各楽器群が大量のユニゾンになると、音色ごとに厚みを持った音の層が生まれ、それらが交わらずに主張し合う。音色群があえて独自性を主張し、それらがギリシャ神殿の円柱のように立ち上る。
交わらない音の柱は、主和音で濁りなく調和し、和声的展開によって様々に位置関係を変えながら、色彩が変化するようにあえて濁っていく。それが解決を経て、再び主和音に戻る。
その瞬間、調和した響きが神々しいほど輝く。

主和音という主人公が冒険に出かけ、様々な敵と戦い、影におびえつつ、それらが実は自らの内面の生み出した幻影だったと気付く。そうして自らの位置に立ち戻ると、それを寿ぐかのように、世界が輝く。
そんな神話的イメージさえ浮かぶほど、立体的かつ豊かな息吹に満ちている。

そもそもヘンデルの音楽は、同時代の他の作曲家と比べても、驚くほど簡素だ。しかし、いざ音にしてみると、これほどさわやかで晴れやかに響き渡るものもない。10月のサラリとした風が、腕をすり抜けるような躍動がある。
それは、和声音楽の粋を極めたからこそ生まれたもの(その先にはモーツァルトがいる)。
弦楽器、木管、ホルン、トランペットの組み合わせを少しずつ変えながら繰り返し、最後に全員で奏すると、さわやかな輝きはいや増す。

この厚みと和声的な美を体感するためにこそ、大規模な合奏、ことに大きなユニゾンが必要だった。
この合奏プロジェクトは、それを再発見した喜びに満ちている。だから、今まさに生まれてきたような新鮮さで充溢している。

***

「水上の音楽」第3組曲では、金管群が舞台から去り、代わりに打楽器とリコーダーが加わる。
13本のリコーダーは、オーボエとバッソンの奏者が持ち替えて吹く。清潔なアーティキュレーションはここでも活きて、ヘンデルらしいさわやかさが心地よく通り過ぎていく。
この音色が横笛のフルートでなかったことに驚く人々がたくさんいたようだが、ヘンデルの活躍した時代が「フルート=リコーダー」が通用した最後の頃だ。

しかも「王宮の花火の音楽」では、右翼と左翼に一対ずつ配置されたツイン・ティンパニも入る(スネアドラムなども含む)。
その1曲目の最後のカンデツァは、ティンパニ同士の掛け合い。日本の和太鼓を少し連想する向きもあるだろうが、大元は軍楽隊だろう(王宮の花火は、管弦楽を中心に進めたいヘンデルに対して、軍楽隊好みの国王の意向をあえて繁栄させたのは、有名な話)。
そこにトランペットの輝きが加わる。9本のラッパと、2対のティンパニおよびスネアドラムが颯爽と進撃する様は、その夜の掉尾を飾るにふさわしい。

***

しかし、こうした音響的、技術的な細部は、あの夜の美の一端には触れ得ても、肝心なところには届かない。
それらは、あくまで美を支えるための、ディテールに過ぎない。

見事さ、それゆえのはかなさに、泣き笑いのような、それこそもののあはれが宿り、どの瞬間を切り取っても濃厚で充実した経験。
CDでは決して聴けなかった、なにか。
それは、単に生の演奏だからだとか、CDの情報では不十分だとかいうことではまったくない。

あの夜には、音楽の本質が詰まっていた。
音楽は、音の芸術だと思っている人が多いが、実は違う。
音楽とは、音を素材に用いた、時間の芸術だ。というより、音は必ず時間が含んでいる。
その本質をわしづかみにした夜だったからこそ「事件」と呼べる演奏会になっていた。
次回に続く]

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