プロフェッショナルを観た(2):柳家小三治
前回に続き、「プロフェッショナル 仕事の流儀」の話。
100回記念の60分拡大版(通常は45分)は、柳家小三治(以下は小三治として敬称略いたします、他の方も敬省略)。
放映は10/14および10/20深夜(再放送)だったから、だいぶ前。その間、数回見た。
この番組は、同じフォーマットで番組を進行するだけでなく、必ず同じ質問をぶつけて、ゲストから(言葉にすることが難しい部分まであえて)話すように仕向ける(少なくとも私は、そのように受け止めている)。
即座にまじめに答える方もいらっしゃれば、微妙な表情をしつつ間をおき、少しずつ言葉を紡いでいく方もいらっしゃる。このあたりの間合い、やりとりそのものが、実は言葉に劣らぬほど重要だと思う。繰り返されるうちに、視聴者の側にもその受け止め方が、蓄積されていく。
繰り返すこと、継続することは大事であり、それは学習の基礎でもあることは心理学でも脳科学でも生物学でも言われること(もっとも、学習が成立する瞬間は一回であるとも言われており、それまでは試行錯誤、その後は忘れないようにするため、と考えることも出来る)。それを実践しているようなものだろう。
だけど、小三治の回は、そんなものをひっくり返してしまう凄みがあった。
VTRの紹介が終り、対談に入る。その席でいきなり、尋ねる、今日はこれを聞くために来たのだ、と。
「昔古典の演目を150覚えて、今覚えてるのは50ないか、ちゃんとやれるのは30くらい、これを回してる。残りの120は どうしんたでしょう どこへいっちゃったんでしょう。忘れないためにはどうしたらいいんでしょう」
まじめな小三治の眼。そして、一瞬固まった茂木の表情、忘れられません。
茂木は出来るだけポジティヴに、繰り返して練習するしかない、というより、アウトプットして確認していく、という意味の解答をすると…(でも、そのインプットとアウトプットの連鎖がうまくいかなくなってる、どうすればいい?という意味の質問なんだよね、本来は)。
小三治、笑顔でさらり「つまり処置なしってことですねぇ」
場内、一瞬笑い(凍りついた?)。
茂木「いや、脳はすばらしいですよ」と言葉を並べると。
小三治「今日は先生、脳を弁護していますね」
ふわっと笑みになる。
おそろしいくらい鮮やか!
的確に、これほど端的に、相手の言動や場の空気を言葉にされるとは。
あの澄んだ眼からは、誰も、何も、逃れられないんじゃないか。
この番組は、特殊技能の持ち主に、そのさわりを実演していただくことが多い。
実はこの趣向、どうも好きになれない。
音楽、プログラミング、物語、演劇、そして落語など「技芸」として扱えるものは、部分を切り離して成立するものではない。全体の流れにあって部分は活き、だから全体を見通す中で初めて、その部分をどう扱うかも決まってくる。
指揮者などの回においても、指揮者が何を考えて伝えるかを、実際に住吉に対して行っていたが、こういうものはリハーサルの実演か、VTRについて質疑応答するほうがむしろ適切なのではないかと思う。
(断っておくが、茂木は音楽や舞台や寄席など文化全般に関心があり、そうした著作がいくつもあるのは十分承知しているし、著作の内容が不適切とは思わない。あまりに初心者に寄り過ぎた構成と演出に、やりすぎと思うだけである。)
小三治の実演コーナーで、蕎麦を食べるところを依頼していた。本来なら、すごく短い小咄をしてもらって、そこでの演技で気になったところを尋ねるほうがずぅっとおもしろいのではないか。
だから「蕎麦をうまくやれてもいい落語家というわけではない」という言葉が重みを持つ。
続いて、落語によく出てくるご隠居、熊さん、八っつぁん、若旦那などの例を依頼した途端。
「それは出来ません」そうして「セリフでその人をやるんじゃなくて、その人の気持ちがセリフに出るんだから、実演販売のようには出来ません」
しかし、それを見越したように、ちゃぁんと答えるところがもっとすごい。
住吉の、鏡を見て練習をするのですか、という質問に対して「そんなことはしないですね」と言いつつ、酒場で見かけた酔っ払いの癖を三つ四つ再現してみせる。
それだけで、スタジオが爆笑の渦に包まれる。そこで出てきた場のゆとりに、初めて「わざわざ観察するわけじゃないけど、観ているうちに、酔っぱらっている人の心持ちになっていくんだ」という。
その表情は「お若いの、芸というのは切り売りするもんじゃないんだ、けれど問い方を考えれば、こうやってちゃぁんとやってみせて、答えられるもんなんだよ」とでも言いたげ。
あの番組は、VTRでゲストとスタッフの小さなやりとりが出る時以外には、茂木・住吉とゲストのやりとりだけがクローズアップされる。
この日は、スタッフの爆笑が何度も起きた。あの番組で、他のスタッフの存在があらわになるのは珍しいことだ。
若く売り出し中の頃、師匠から根本を否定された時の苦悩。プロフェッショナルならではの、どん底時代とその克服。今回は重く、まだ結論はなく、いや結論など出るような性質の話ではない。
いつものように紋切り型の質問をあえてし、それに小三治が答えるところはまぁ、一種の儀式のようなものだろう。
しかし、その後のやりとりで出てきた言葉。
「人間を一番下から見る。これがなければ落語はできない。病気がそれを教えてくれた。だから、病気になったことに、感謝している。私は、バカかと聞かれて、はい、と斟酌せずに答える 自分はダメな人間かときかれて、はい、と答えることに、なんの斟酌もない」
文化に携わるゲストで、一番下からの言葉が出たことは、この番組では初めてではないか。そして、それを本当にやっている方の凄みが、番組の枠組み自体を野ざらしにして、揺さぶる。
茂木が再び、あえて聞く「人間はなぜ笑いを必要とするのでしょうか」
それにどうやって答えりゃいいんだよ?みたいな、実に微妙で珍妙な表情。うなってうなって、長い間をとってから、微笑んでポツリ。
「いやぁ、ただ笑っちゃうんじゃない?」
茂木「人間らしく生きていると…」(←この一言はよかった!)
小三治「笑っちゃうんだよね。笑っている時って、うれしいじゃない? もっと深く言えば、笑ってる自分って好きじゃない?」
噺家にしてはまじめで考え込んでしまう、そしてそれをよしとしてしまう自分が好きになれない、という述懐に通底している。
質問以上の何かが引き出された瞬間。これを金言と言わずして、何が金言なのだ。
それを立証するように、小咄を披露する。
−−こんだけ無精者が揃ったんだ、無精会でもやろう
−−よしなよ、めんどくせぇ
オチが読める、たった2行の小咄なのに、なんで腹がよじれるほどおかしいんだ。
スタジオは爆笑に包まれ、こちらも笑っているんだか泣いているんだかわからない。コメントがもう一言加わるだけで、さらに爆笑と涙が広がる。
プロフェッショナルと称しつつ、こんな短時間で神髄を観ることは難しいよと思っていたが、このときは深奥に食い込めたのだと思う。
番組の最後はVTR。この8月、池袋演芸場の10日連続公演への密着取材。
あんなに楽屋が小さいなんて、知らなかった。出演者全員が共有していたとは。
そこにカメラが入るや「こうやってカメラが入ってるけどね、みんなお互いにわかりあえるから、入れてるんだよ。ここは自分の出演について、自分のことを考え、集中しているんだから」と軽く諭す。
高座の空気に配慮する眼が、こわいくらい澄んでいる。
私がこの回で一番感動したのは。
マラソンのような連日の出演で、なお悩み続ける一言。
「客のためにやってるんじゃない、俺は俺だ、という自分がいる。一方で、こんな暑い中、わざわざ来ていただくお客様が一番だ、という自分もいる。どこかで一致するはずなんだ。それがまだ来ない」
音楽でも仕事でも、クリアすべき条件があり、そして自分が今出せる技があり、どうせやるならこうしたいと思うこともある。そこでどうやっていくか。妥協ではなく、折り合うだけでもなく、どこかもっと先がある。
悩む表情と、そこをくぐりながら、ほろりと笑う高座での表情。
楽屋内をさらすのは、おそらく師匠の趣旨には反するだろうに、この言葉と表情を収めることが許され、そうして私も観ることが出来た。こんなすばらしいこと、滅多にない。
番組について文句ばかり書いたが、しかし、とても感謝しているのだ。まさに継続は力なり、これからも続けてほしい。
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