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2008.11.04

ニケ指揮、ル・コンセール・スピリテュエルの東京公演(3)

前回の続き]

私がこの演奏会で少し驚いたのは、休憩後に演奏された合奏協奏曲への聴衆の反応が、他の曲に比べると少し薄かったこと。
この曲への反応は意外なくらい薄く、むしろ次の「水上の音楽」第3組曲で大きな拍手がやってきた。
おそらく、なじんだ曲であること、しかも見事な打楽器やリコーダーに、安心しながらも新鮮味があって、見事に感じられたからだろう。

しかし、この夜の白眉は、金管や太鼓が派手な曲よりも、この合奏協奏曲だったように思う。
大量のオーボエ(およびリコーダー)と弦楽合奏は、大所帯ゆえの鈍さなど皆無。指揮に皆が吸い寄せられて、まるで同じ情緒を味わっていると思えるほど、親密かつ高速な反応を繰り返していた。
そこからは、ヘンデルらしい、一見すると単純なのに、とてもつややかで恰幅のいい響き、しかも少し短調に寄った途端に出てくる、胸がスッとするようなはかなさが、存分に流れていた。
もののあはれとはこのことだ、というほどに。

音楽を聴き、そのあまりの見事さに、喜びとはかなさが同時に感じられてしまう。
それはどういうことなのだろう。

***

音は、空気が揺れて、つまり空気が振動して伝わる。(もっとも、人が音として感じられるのは、聴覚の可聴域の振動だけ。)
音源が振動している限りは聞こえるが、振動しなくなれば聞こえない。空気の振動は様々に変化し、視覚よりも安定して感じられにくいし、変化がわかりやすい。
音は、時間的な変化を意識しやすい。

また、視覚のように明瞭なエッジ(ふち)を感じにくく、連続的な変化の中で、ある一定の周期を伴う時、つまりリズミカルな、あるいは音の高低のパターンが感じらると、形として感じやすい。
音の高低は、空間的な印象を連想させるし、リズムは時間の速度を感じさせる。

音源から伝わる振動は、ある程度以上の距離を減ると聞こえなくなるが、逆に言えば、音源の近くにいる限りは聞こえてしまう。
視覚は目をつぶれば、一時的な場合も含めて、見ないことを選べる。
聴覚は距離をとらない限り、耳を塞いでもある程度は聞こえてしまう(身体そのものも振動を伝える)。
そのためか、音は視野にないことを察するためにも使われる。

このような生き物としての事情も含めてだろう、音は、人にある感情を引き起こす。大きな音には驚くし、周波数の低い音から高い音への移動はある種のジャンプに近い感覚も引き起こすだろう。
ヒトは非常に柔軟に経験を構築する生き物なので、大きな音がしても特に身の危険がなければ慣れるし、音の移動のパターンがより複雑になることで、より微妙な感情を引き起こすことも学べる。
こうした性質を逆手にとって、積極的に音で感情を共有しようとして、音楽を生み出したようにも思える。

もちろん視覚を含めた五感のどれをとっても、生得的な情動と、経験や学習による新しい反応の獲得がある。
ただし、視覚に代表される明瞭なエッジや形を伴わない音は、より柔軟に、文化圏ごとにだいぶ異なる印象を学びうる。また、違う文化圏の音に対しても、慣れて要領を得れば、その文化圏の文脈を楽しむことができる。

***

音は放っておいても持続するものではなく(太陽のように安定した光源があれば見える視覚とは異なり)、歌なり演奏なりを続けなければ聞こえてこない。現代では電気信号により持続的な音を出せるが、それまではパイプオルガンが持続音の帝王だったことを思い出していただきたい。
しかも、完全に同じ経験をもう一度することは、まず無理だ。まったく同じに演奏することは、人間には出来ないし、機械にやらせたとしても、さっきとまったく同じ感情をもって聴くことができる保証などない。
音そのものが時間的な経過を織り込んだ経験であり、さっきの私と、今の私がまったく必ず一致する保証がないことは、こんなに理屈をたくさん並べなくても、多くの人が何となく感じ取っているのではないか。
同じ曲を、同じ人が演奏しても、ある時には涙が流れるほど感動したのに、他ではそうでもなかった、ということもよくある。

音楽はその性質からして、時間経過を内に含んでおり、しかも常に変動する音波を浴びながら、微細な感情の動きを味わう。
このため、音楽は「はかなさ」を本質的に内包しているのだと思う。
それが見事であればあるほど、その曲に込められた情緒だけでなく、終わってほしくないくらいだけど終わってしまう、という感情をどの曲にも含ませることが出来る。生の音がすごいということではなく、音楽とは一回一回まったく違う生き物のように動くのだ、という「演奏の一回性」。

***

この夜の演奏は、演奏の一回性を強く意識しやすい状況でもあった。
ヘンデルが大規模な祭りのために企画した大規模な合奏体を復活させて、存分に味わう。そのページェントとしての性格も含んでいた。
演奏の一回性を強く意識している人々が集い、そのためにいま出せるものをその場に盛り込もうとする。(ただ必死だったわけではなく、持てる技術や音色の最高のものを、最適なタイミングで扱うプロフェッショナリズムに徹していた。)
有名なお祭り音楽の中にあって、真摯に作曲された合奏協奏曲がとても静かで感動的だったのは、この一回性の流れの中で、やはりとても真摯に演奏されたからだろう。

他の曲でも、おそらくレコーディングならNGになりそうな、弦楽器と金管楽器の微妙なタイミングなどのズレが気にならないほど感動的だったのも、演奏の一回性を強く意識し、惰性に流れた箇所がほとんど感じられなかったからだと思う。

できることなら、すばらしいミーントーンのハーモニーの余韻を味わってから、拍手に入りたかったけど、逆に興奮した方はすぐに拍手したかったのだろう。
いつもなら立腹しそうではあるが、この日は鷹揚な気持ちでゆっくり拍手に加われた。

とにかく、すぐれた音楽職人達、それを統率する情熱と見識を兼ね備えた指揮、そして祭りとしての雰囲気と会場。様々な要素が一つに集まっていた。
そこに、当日取得した席で片隅にいただけでも感じられた、喜びとはかなさ。
確かにそんな演奏会は滅多にない。
奇跡的、という言葉が思い浮かぶとともに、ここに指揮者や演奏者達が注ぎ込んだ情熱の大きさをしみじみと味わいながら、会場を後にした。[了]

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