電脳コイルをやっと観た
少し気温が上がったと思ったら大雨、その後は冷えてきた。忙しい気温だ。まだ立春前だが、今年は少し気が早いのか?
アニメ監督の鳥海永行氏が逝去された。67歳。
記事はアサヒ・コム(1/25)などにあり。
「科学忍者隊ガッチャマン」を子供の頃に観たし、「ニルスのふしぎな旅」など数多くの作品を送り出した方として有名。
タツノコプロ→すたじおピエロの後続世代を育てていったことも記憶されるべきだろう。たとえば、押井守。
現在の平均寿命から考えれば早い死だろうが、労働集約型産業であるテレビアニメの勃興期はたいへんな作業環境だったはずだ。
合掌。
その報道のあった週に、私はあるテレビアニメのDVDを観ていた。
磯光雄氏の初監督作品「電脳コイル」。
(徳間書店とNHKのページがある。)
2007年の初夏から冬にかけて、NHK教育で放映されたから、もう2年前の作品。当時すでに評判がいいことは耳にしていた。
2008年の正月に90分ダイジェストが放映され、そこで初めてきちんと知った。作画と展開に興味を覚えるも、再放送をチェックする間はなく、放置状態。たまたまDVDレンタルで一気に借りることが出来た(7泊8日ギリギリかけて観た)。
現実空間上に電脳空間という仮想空間をオーバーラップさせ、携帯電話やメール送受信、インターネット閲覧からノートテイキングまで様々な機能を持つ「電脳メガネ」が普及する近未来。
ヤサコ(小此木優子)は小学校6年。金沢市から大黒市に引っ越してきた。妹と電脳ペット「デンスケ」を連れて引っ越し先に移動中、黒い電脳生物に出会う。そのイリーガルという黒い生物から二人を守ろうとしたデンスケは、古い空間(電脳空間)に迷い込んでしまう。
デンスケを救ってくれたのは、偶然出会った「電脳探偵」フミエ。フミエの使う様々な電脳の得物は、メガばぁの提供するMEGASI屋で買うものであり、メガばぁは電脳探偵局の主宰者。そうして、実はヤサコの祖母(おばば)。ヤサコは自宅にフミエを招き、お礼に夕食(といっても引っ越し直後でレトルトカレー)を共にする。
フミエは転入先でクラスメートとなる。放課後、デンスケが謎の少女に連れ去られそうになる。メガばぁは、フミエにその少女の調査を命じるが、その謎の少女は一日遅れでやってきたもう一人の転入生だった。
天沢勇子、同じ「ゆうこ」。ヤサコは彼女にイサコと名付けて友達になろうとするが、拒絶される。しかもイサコは、ヤサコが転校前にいじめ問題に遭遇していたことを見抜く。
また、フミエのクラスメートで幼なじみの大地(ダイチ)は、大黒黒客(だいこくへいくー)という電脳ハッカー団を主宰しており、彼はイサコを勧誘して拒絶される。腹いせに罠を張るも、完膚なきまで返り討ちに遭う。のみならず、イサコはその様子を探っていたフミエに対しても、並行して対応する凄腕でもあった。
イサコはいったい何をしたいのか、なんでそんなことをするのか、なぜそこまで他者を拒絶するのか。そんなことを考えているうちに、フミエからハラケンを紹介される。彼はイリーガルの研究をしている。その共同研究者、幼なじみのカンナは昨年事故で亡くなっていた。カンナの声を聞いてやれなかったことを悔やむハラケンに、ヤサコとフミエは夏休みの自由研究としてつきあうことにする。
一方、イサコは電脳物質メタバグを集めていること、それはイリーガルと電脳空間の都市伝説ミチコさんに通じているらしいことも、わかってくる。その間に、ヤサコは大黒黒客を乗っ取り、大地を追い出してしまう。
そうして、夏休みがやってきて、一見のどかな休みの光景は、自由研究の進展につれ徐々に深い問題へと接触していく…
良質なジュブナイル! 多くの登場人物がきれいに、かつ生き生きと描き分けられている。
くさい台詞が何度も登場するが、それさえも「だからなんだ、今これを言わなければ誰が言う?」という確信をもって描かれる。
電脳メガネという新しいメディアを空気のように操る子供達、そこで相変わらず生じる(子供のむき出しの)力関係やいじめ、親の目を隠れて実はとんでもないことをしでかす連中。
メタバグ、メタタグ、サッチー、キュウちゃん、電脳霧といったミステリーのような電脳空間のアイテム、都市伝説ミチコさんの謎。それらに触れるうちに、自らの記憶の痛みに触れざるを得なくなるヤサコとイサコ。
実はずる賢いことにかけては子供よりずっと上の大人達、また一方で子供を守ることに実はとても心を砕いている親や大人達。
電脳メガネが、携帯電話やインターネット、ユビキタス・コンピューティング、ウェアラブル・コンピュータといった比較的新しいメディアのメタファーとなっているだけではない。
すぐに適応して過激な遊びを繰り返しつつも、少しずつ大人に近づいていく子供が描かれる一方で、そのような生活の変化を促す道具を提供する大人の側の責任も同時に描かれる。(ゲームや携帯電話などだけでなく、アニメやそれにまつわる玩具を商売にする大人達の陰画にもなっているだろう。)
小学校最後の夏休みに、イサコとヤサコは命をかけた闘いを経験する。
事件が起きたことにより、子供を守るために電脳メガネを取り上げようとする親達。当事者の親として、きちんと抱きしめ、電脳空間の出来事は手に触れることが出来ないことをわからせようとするヤサコの母。
しかし、だからといってそれが本当にウソの経験なのか。自らの問題は、自分で解決するしかないことに気づき、親から離れて行動するヤサコ。この、大人の正しい言い分を受け止めつつ、自ら動き出すところを丁寧に描いているのは、とてもいい。
ヤサコとイサコが互いの相容れない部分をぶつけながら脱出する過程は、古典的な設定ながらも、感情のリアルさによって、そんじょそこらの冒険マンガなど退けてしまう味わいを生み出している。
ガッチャマン、ヤマト、ルパンIII世、ハイジ、ガンダム、ナウシカやラピュタやトトロ、エヴァンゲリオン、攻殻機動隊などを経たアニメが、何周も螺旋階段を昇りながら、古くて新しいステージに入ったことを実感させる作品。
日本は近代文学だけでなく、児童文学にも名作が多いが、マンガやアニメには明らかにその伝統が流れ込んでいる。だから日本語を知らない人々にも受け入れられている。
電脳コイルは、少々説教臭い部分が鼻につく感じも受ける(教育テレビだからか?)。説明的な台詞もある。
とはいえ、ガッチャマンやガンダムなどとは違った、非常に身近な設定を駆使して、大人と子供のそれぞれが考えることの出来るテーマを扱った。そして、子供の時が終わり、大人の時間の入り口に立つ瞬間が、子供と大人の双方から描かれてもいる。このことは、特筆されていい。
ところで、きれいに終わってはいるけど、続編を作ることが出来る終わり方にもなっている。
続編を積極的に観たいと思っているわけではない。むしろ観たいのは、磯光雄氏の次の作品だけれど、もしやるなら、可能な限り同じ陣容でやっていただきたいものだ。
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