小川洋子×若島正の対談
文學界2月号(2009年1月7日発売)に、小川洋子氏と若島正氏の対談が掲載されている。
もちろん小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」の単行本発売にちなんで。
(ちなみに発売と同時にあちこちで話題になっているし、1/18の朝日新聞には鴻巣友季子氏の美しい書評も掲載されている。)
昨年の集中連載は読み応えがあり、一方でこれまでの作品とはどこかトーンが異なる印象を受けてもいた(昨年、既に触れた)。
それでもやはり「小川洋子の世界」である。たとえば「博士の愛した数式」のような暖かいラストではなく、人としてどこか逸脱した主人公を、静謐さと正確さでもって、美しく残酷に描く、という意味でもそうだし、文章の彫り込みにおいて、相変わらずの濃密さもそう。
対談の相手は、詰め将棋およびチェスプロブレムの第一人者であり、ナボコフらの翻訳でも知られる若島正氏。
小川氏がチェスについてしばしば若島氏に相談したが、何より作者自身の取材と構想によって書かれる様子にもしばしば触れられている。
作品を読む際の補助線というより、チェスを巡る人について、二人で語り合う様がいい。当然のことではあるが、解説にならないので、安心して読めるし、楽しい。
一つ、私が目を引いた小川氏の発言。
「リトル・アリョーヒンは、生まれつき両親を殆ど失っているという設定でしたが、書き終わってみると、彼はチェスを通じて、マスターと総婦長という、「父親」と「母親」には出会えた話になりました。それはちょっとあまりにきれいにまとまりすぎていて、作者としては不本意なんですが。」
これに対する若島氏の応えはお読みいただくとして、やはりそう感じていたのか、と頷いてしまった。
ただ、マスターに父親が重なるのは当然として、総婦長という存在に出会えないまま亡くなるならば、この作品のラスト、あの見事なたたみ方はほとんど成立しないはず。
おそらく詰め将棋やチェスプロブレムがそうであるように、また数学や物理がそうであるように、どこかが通ると、どこかがちょっとだけ不釣り合いになり、その中で最善を尽くす手つきの美しさこそが、真善美を保証してくれるのではないか。
そしてそれは、人の生そのものでもあるはず。
さて、なんとか他の用事とのバランスをとりながら、ドナルド・キーン氏の長編評論にもとりかかろう。
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