東京都の青少年健全育成条例、改案のあぶなさ(2)
[(1)からの続き]
こういった情報から、読み取れることを考えていくと…
東京都は出版社、ゲーム制作会社などが密集している。また、東京国際アニメフェアなども開催されている。そこでこの条例を発行できれば、全国規模での抑え込みに効果あり、という含みが、この条例案にはあるだろう。
ただし条文を参照するとわかるのだが、雑誌やテレビ、ゲームなど既存のメディアとともに、いやむしろ強く、インターネットでの流通を規制しようとする趣旨も読み取れる。
インターネット・プロバイダーが青少年と契約する際にフィルタリングを推奨することを事実上必須化する条文もあるし、携帯電話で流通するコンテンツにおいても東京都が推奨を定めて事業者に従うよう勧告する条文もある。
いずれにせよ「18歳未満の登場人物が何らかの形で性に関することに触れており、それを肯定的に描いたらアウト」に持ち込むことを目的にした条例だ。
また「そのような制作物を何らかの形で所持していてもアウト」に持ち込むことも含まれているように見受ける。
つまり、提案者達の真の目的は「青少年の育成に害のある」あらゆるコンテンツを、制作・発表の段階で制限をかけ、また流通・所持の面で排除することであろう。
またその対象は、育成される青少年だけでなく、制作・流通・所持が可能な大人の側を積極的に取り締まることに重きがある。
大人なら自分の責任でやることに関しても規制を加える、という点が重大である。
民主主義国家であり、個人の自由と尊厳をうたう憲法をいただく国家や自治体の定める条例には、まったくもって見えない。
これは、新聞報道にあるような「表現の自由」という問題だけではない。
提供されたものを、自分の意志で選びとる「個人の選択の自由」に制限をかける点が問題だ。
いや、こっちのほうがずっと重大な問題だ。
子どもをショッキングな表現から守ることは、必要ではある。
実際、出版物や制作物における自主規制は(過去に児童ポルノ法などが取り沙汰される前からも、その後でも)行われているし、流通や売り場におけるゾーニングなどもある。
一方、純粋培養・無菌(に近い)状態で人を育てて、どうしようというのか。
世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな好みがあって、いろいろな考えや立場が存在しうる。そういうことをまったく知らないで過ごすこともまた異常なことだし、実際問題として不可能だ。
様々な世の中や人間のことを、親が、あるいは周囲の近しい人々が、何らかの形で子に示しながら、その子なりの選択が可能になるように支えていくのが、本来の姿だろう。学校の教師が細かく入り込めないそのような部分のためにこそ、親や親相当の保護者がいるんじゃないのか。
各人の選択については、一括して法律や条例で規制することではなく、親が子の育つ過程をみながら、また親と子の価値観を付き合わせながら、個々に決めていくこと。
その貴重な過程の一端を奪ってしまうことで、かえって教育に悪影響が出る弊害のほうが大きいだろう。
インターネットにおけるフィルタリングについても、一括で行うのではなく、個々の親が判断すること、またその判断が大変ならば、助けになるようなパッケージが複数あって、選べることなども重要ではないか。
この条例案に反対することは、児童ポルノ等のコンテンツを容認する、ということではない。
人を育てる上で大切な自由意志の成長、また個人の選択の自由を奪う、恣意的な運用も可能な条例案であり、その弊害があるからこそ反対する、ということだ。
いまのところ審議継続の流れと言われてはいるが、実際にどうなるかは審議当日にならないとわからないのも事実。このような報道が出ることで、成立を目指す側のロビー活動(のような動き)が活発になる可能性もある。
つまり、まだ安堵できる状況ではまったくない。時間を少し稼げただけ、である。
しかし、それでも当初の「このまま成立しそう」よりはマシ。時間が限られているが、成り行きと対策は意識しておくほうがいい。
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