電子書籍という言葉にとらわれすぎないほうがいい
iPadは5月28日、日本でも公式に発売される。
ただし、米国経由で直輸入した方も多数いらして、首都圏や京阪神のような人口集中地帯では様々なデモ大会も開かれていたようだ。
今年の1月、「いまさらだがiPad」にて、iPadはKindleのような電子書籍リーダーのみに焦点をおくデバイスとはまったく異なる軸にあると書いた。
短時間ながら実機に触れた時、大きく間違ってはいなかったと思う。たとえば「不思議の国のアリス」や「くまのプーさん」のような電子絵本は、単なる絵本というより音や動画が溶け合った、動く絵本とでも呼ぶべき新しい存在だったし、それ以外の機能はネットブックと被る。
同様のことはWeb上でも触れられているが、文学フリマで購入した雑誌『はんせい 6号』に掲載されているルポ「上陸寸前!iPadとKindleで未来はこうなる!!」にも、現役の編集者からみたiPadとKindleの違いについて触れている。両者はやはり別物であり、さらにiPadは新しいメディアとしての可能性が広がっている、と。私が最初に触れてから書こうと思っていた感想と似ている。
(ちなみに、この号は特集1がツイッターであり、いまさら人に聞きにくいとか、IT雑誌売り場のムックはいかにもすぎて買う気がしない、という人にはちょうどいいくらいの内容と分量だと思う。閑話休題。)
また、「iPadに向きそうなコンテンツ」で触れたように、料理やヨガや楽器やスポーツの教則本+教則DVDの融合も、非常に向いていると思う。
しかし、それ以上に感じたことは、電子書籍という言葉が持つイメージにとらわれすぎないほうがいい、ということだ。
Kindleは現在のところ、紙の書籍を電子化して検索性の高さなどを追加しつつも、紙の持つ読みやすさに近づこうとしている。
バックライトを持たない反射型の電子ペーパーを用いて、美麗・精彩よりも、長時間の読みやすさを重視している。また、通信端末、アプリケーションソフトの実行端末としての特性を、あえて削ぎ落としてもいる。
iPadは違う。MacやiPhoneで培ってきた通信端末、アプリケーション実行端末、音楽・映像鑑賞端末としての特性上に、電子書籍も持ち込める。
このような端末を手にした場合、既存の紙の書籍を模倣するだけでなく、音や動画も連携して扱うこと、場合によっては通信しながら最新データを見せてくれるケースも出てくるだろう。
動く電子絵本だけではない。
詩集を出版する場合。美麗にデザインされたページとともに作者か俳優が朗読する、というより、朗読につれてページが自動的にめくられていく…
雑誌の場合。インタビューや対談なら、印象的な発言が出た部分を直接動画で参照することで、臨場感も伝える。朗読と同期するのもありだし、経路やエンディングが複数ある創作や記事(!)だって作ることもできる…(二度、三度と読ませることも不可能ではない。)
紙という固定した媒体とは異なり、もっと動く(つまり時空間をより直接感じさせる)音や動画などを、これまでの活字とともに扱うことが出来る。
この場合、たとえば従来の雑誌と、Webマガジンの敷居はかなり低くなる。ただし、雑誌のようにまとまったデータの束として読めるし、Webページを見る時ほどの能動性も必要ない。紙とWebの中間的な位置なら、編集者の力量も発揮しやすいはずだ。
また、電子雑誌はTVの情報番組にいくらか近づく可能性もある。とはいえ、TVよりは落ち着いてみることが可能な作り方も求められるだろう。
小説、ことにライトノベルなどの場合、ゲームやアニメにより近づく可能性も出てくる。というより、アニメが原作のノベライズに最適かもしれない。
これまでの雑誌や書籍の編集とはまた違うスキルが必要になるのかもしれない。
つまり、従来の書籍や雑誌を忠実に電子化するようなことを、iPadは意図しているようには思えない。従来の本も包含されるが、目指すのは新しい本、であるはずだ。
こうした「新しいメディアとしての電子書籍」を求める場合は、iPadが現在もっとも近い位置にいる。
逆に、書籍の代替物としての端末なら、Kindleに一日の長があるように思う。
文学フリマではiPadを一台、Kindleは大量に見かけた。Kindleは入手しやすかったこともあるだろうが、それにしてもiPadは少なかった。落ち着いて本を読むことに関係するイベントらしい、と言えるのかもしれない。
その一方で思うこと。
活字を読み、頭に思い描く、という行為は、直接絵で見る/音で聞くよりも、抽象的な操作を要求される。
この抽象的な操作を学ぶことが、長らく人類にとって知的な世界への入り口だった。
そこに、音や動画のような、より直接的な体験が持ち込まれる。
このようなデバイスが一般化する時、人は言語のみによる抽象化よりも、言語/音/動画を並列に扱う機会が増えることになる。
その姿は、読書体験が、一般的なコミュニケーションに少し近づくことも意味するだろう。手紙を読むより、人と会って話をする形に近づくようなものだから。
人類にとって、抽象思考の方法が変わる日がやってくるのだろうか。
果たしてそれは、文字がなかった社会(=記憶力が重視され、覚えやすいような韻律や繰り返しが多用される)から、文字を使って記録する社会への変化のような、大きな変化に相当するのだろうか。
結論はもちろんない。善し悪しばかりを今から論じても仕方ない、このような技術に支えられた文化になりゆく時、我々ができることは、体験しながら思考して、思考しながら体験することくらいだろうから。
とにかく、新しい経験をもたらす可能性のあるデバイス初号機が、もうすぐ発売になる。
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