« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »

2011.02.17

電子書籍化・第3弾「オモイのタネ」

電子書籍化第3弾として「オモイのタネ」をお送りします。

第3回文学フリマで販売した冊子「作品集2 オモイのタネ」から、表題作「オモイのタネ」の電子書籍版です。
その際には「No news is good news ---- 繭玉2」が併録されていました。この作品は現在、内容や出来に不満を持っており、今回も、今後も再版の予定はありません。
「繭玉」の時と同様に有料ですが、文学フリマで販売していた時より安くご提供できたのも同様です。

これまでの2冊は表紙に写真を使ってきましたが、今回はあえて文庫本のようなプレーンな表紙にしてみました。
これまで同様、ご購入前に立ち読みページで内容を確認出来ます(全部ではありませんが)。
やはり最初の2セクションとあとがきを立ち読み公開しています。
お楽しみくださり、また全編に触れていただけますと嬉しいです。

今回もパブーから出しました。
例によって、ePubでお読みになることを推奨致します。(パブーのPDFは残念ながら読みやすいとは言えない。)
ePubでの読み方については、過去に記事で触れましたので、よくわからない時にはご参照ください。(iPhone/iPadならこの記事、それ以外の機種ではこの記事をどうぞ。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

エジプトの政変は革命か

断続的に注視していたエジプト。ついに民衆の声が軍や米国(といった後ろ盾)を動かして、ムバラク大統領を辞任に追い込んだ。(ニュースは山ほど流れているし、あえてリンクははらない。)
デモで血は流れた。それは悲しいことだが、様々な人々が「今のままでは埒があかない!」と声をあげ、軍は民衆に銃口を向けず、強権独裁政治を終わらせようという点で一致した。
その後は軍が臨時に管理機能を掌握したが、民主的な憲法を定める移行期間に限定し、新憲法が動き出したら権限を握らない、これまでの国際条約も遵守する、とも明言した。

エジプトに向かけた米国(エジプト軍への支援国である)のメッセージはふらつき、後手にまわったが、現在のところ最悪の事態は免れているとみているのだろう、落ち着いてはきた。

今回の政治体制変更は、大統領辞任後の絵図がないこと、運動には背景となる思想や方向性が一致していないことから、これはいわゆる革命ではない、という声もある。
ただ、これまで声を汲まれにくかった若者らが、ネットを軸に開放的な連携を示し、それに市民が賛同して、自分達に可能なことをやることで、政治体制に声を届けたということは、革命的な事態と呼びたくなる。
それに、今後のシナリオをきちんと考えて着実にやれる保証がなければ進まない、などとしていたら、変更可能なことも変えられなくなる。

今後の推移によっては、このような陽性の革命が継続しなくなる可能性もあるが、今回のように「これさえ押さえてくれれば合意出来る」というポイントを見出しつつ前へ進み続ければ、新しい政治体制変更の例として、歴史に刻まれるのではないか。

日本では、やはり「このままでは埒があかない」と、選挙で政権党を交替させた。その結果は、前と同じか、それ以上に迷走している。
エジプトでも似たようなことが起きるのかもしれないが、それでも若者が声をあげたあの国は、間違ったらまたやり直せばいいという陽気さがありそうにみえる。
日本でも、皆がもっと陽気に、気軽に、試行錯誤してみればいいだけなのかもしれないね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.07

春節

春節(旧暦正月)を迎えた横浜中華街に行ってみた。
最近はそう極端に混雑はしない。
だから、少し獅子舞を見て、めでたい爆竹の音で身体の周りに強烈な振動を浴びせたら、媽祖廟を拝観して散歩したら帰るくらいのつもりだったが。
想像以上の大混雑に驚いた。

中央通りも関帝廟通りも人で溢れ、ろくに前へ進めない。それ以上に、今現在どこで獅子舞があるかもわかりづらいし、爆竹の音に気づいても、なかなかたどり着けない。
こんなのは1990年代後半以来かもしれない。

逆に、それくらい最近は静かだった。新しい地下鉄が開通し、門が新しくなり、通りもきれいになったが、歩行者天国が歩きづらくなるほどの集客にはならなかった。
おまけに、JRのよこはまフリー切符が廃止された。これは、JR出発駅からの一日往復切符で、横浜の主な観光地に近いJRの駅が乗降自由になり、交通費が安くなったもの。代わりに、みなとみらいフリー切符500円が発売されたが、JRの移動が長い人にとっては実質値上がり。もしかすると、これも追い打ちだったのかもしれない。

だが、そんなことは何のその、今年の春節あけの土日はものすごい人手。媽祖廟で線香を捧げるのに人混み、お堂にも人がいっぱい。
そして、最近とても増えている、開運グッズやら運勢判断の店に人が押し寄せていた。
一体どうしたことだろう。今後は人が戻ってくるのだろうか。

一方で、数軒の閉店、移転もみかけた。昨年から今年にかけては、建て替えで廃業した古いバーや理髪店などもある(野球場寄りのホットドッグスタンドも、店主高齢化からついに閉店した)。
街が再び変化しつつあるのか。

***

1999年代の横浜は、桜木町の開発と対照的な野毛の存在、まだ古い建物や店がいくらか残っていた中華街、といった魅力で人が集まっていた。レトロがキーワードだった、といえるか。
横浜中華街は、他国のチャイナタウンのように、一人で歩けないくらい怖い、という場所がない。その上、台湾茶藝館ブームと呼応するようなレトロ感が残っていたことから、東京とちょっと違う気分を、一人でも大勢でも安心して味わえる街だ。デジカメブームが勃興した頃は、写真女子があちこちに出没していた。
2000年代に入り、ワールドカップも終わった頃から、横浜再開発があちこちに広がって、中華街を取り囲む建物が高層化し始めた。中華街自体も再開発できれいになり、高層ビルに向き合うように門を壮麗にした。また、中国の勢いが増し、池袋とともに、大陸から多くの人が入ってくる場にもなった。
レトロ感がなくなった後の魅力として、今の中国を感じさせる店と、これまでの安定した老舗とが、共栄する状態になるのに時間がかかっていたのだとは思う。
この活気の戻りが本格的なら、これまでとは違う発展も出てきそうだが、継続的なものだろうか。

それにしても、なんであんなに混雑していたのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.04

コメントの設定変更

コメント投稿後、すぐに反映されず、こちらで確認してから公開するよう設定を変更しました。
これまでトラックバックのみ、こちらで確認してから公開していましたが、今後はコメントについても同様となります。
ですので、投稿後はしばらくお待ちいただくようお願いいたします。

| | トラックバック (0)

2011.02.03

ネット企業、ネット文化、という言葉を過去のものにしたい

昨日「インターネットによる情報流通の本質」というエントリーをあげた。

都知事の発言から、インターネット利用の考え方の、だいぶ大きなところまで流れ着いた上で、もっとインターネットについて考えようという提起だけして、結論らしい結論は示していない。
もっとも、様々な地域や社会での常識の変化や混乱について、これさえ考えておけばいい、といった類の結論はおそらく示せないだろう。

とはいえ、少し補足しつつ、自分なりの現時点での考え方もメモしておきたい。メモなので、あまり整理はされていないかもしれないが。

***

インターネットはその出自における仕様から、自由な情報流通と、中央管理機構の不在が特徴だと記した。

ただし、現実には米軍の研究から生まれた技術であり、暗号技術の根幹は米国(米軍)が握っている。逆にいえば、ネット上のデータの盗聴も可能である。
米国ではブッシュ政権時代に、テロその他の凶悪犯罪を未然に発見するための盗聴は合法化されているが、昨年9月にワシントンポストなどで報道された法案のように、オバマ政権に入ってからさらにソーシャルネットやTwitter、BlackBerry端末の通信なども盗聴対象と出来る方向に(政権や議会が)シフトしつつある。
確かにデータは自由に流れるし、普段は意識することはないが、監視の対象になる可能性は常にある。

また、中央管理機構がないのは理論上であって、昨日も触れたように、実際には強大なネットワークインフラを持つ国や地域、また大きなサーバに皆が利用出来るデータを集積する組織や企業が、一種のセンターとして機能する。
データが自由に流れるとすれば、高いところから低いところへ流れ着くように、やはり集積地帯というのが出来るのが現実である。そして、インターネット上の勢力を地図上で表すなら、経済格差の地図とほぼ近似して、経済大国にインフラも情報も集積する。

自由とはいえ、文字通りの理想的な意味での自由は、やはりない。

ただ、国境を越えて繋がっていけるだけに、ネットワークに接続出来る端末があれば、集積地帯の情報を離れた地点でも利用できる。
データはクラウドに預けていて自国にはないとしても、現地で起きている様々なことを、テキストや写真や動画などで公開していくことは出来る。
インフラが貧弱だと、通信速度などの問題で、気持ちよく使えない地域も多いだろうけれど、普段のTVやラジオだけでは得にくい知識や情報に、一足飛びにアクセス出来ることは事実。
一度そのような「知りたいと思ったことを知ることができる自由」に触れると、それは失いたくないものの一つになる、という人も多いだろう。

自由に知って考えることが出来るというおもしろさや喜びに、なんらかの形で触れられることが、インターネットのもたらす自由、というのが私の感じていること。
そのような考え方の背景には、米国流の自由主義、プラグマティズムが息づいているのは確かだが、自由に知り考える喜びという感情は、ヒトという種にかなり広く内在するのではないか。
つまり、インターネットのもたらす自由は、発祥の米国の理念とはまた違う形で、人々に受け容れやすい性質のものではないか、とも感じている。

***

ただし、多くの人々が、書物だの雑誌だのネットだのを読み耽ってばかりいるのかといえば、もちろんそうではない。
それに、流れてくる言葉や文や音や映像を、ネタとしておもしろおかしく眺め、それでおしまい、という人がいても不思議ではない。またそういう人々をバカと責めるのもまた妙な話だ。様々な人々が存在するのが世の中なのだし、それを許容しないような体制は息苦しい。

とはいえ、「今、こんな生き方や仕事をするなら、このあたりを押さえておけばオッケー」ということを知りたくて、ネットに頼る人も多いはず。(現実には、ちょっと押さえておくだけだと、長く仕事として続けていくには不足であることがほとんどだが、ある種のノウハウを得ることで悩みが解消されることはあるから、一概に否定も出来ない。)
そういう時にはやはり、適切に編集された情報が重要になる。生のデータだけでは大きすぎて噛み砕くのに時間がかかるし、まとめがあれば助かるものだ。専門書などは、複雑な現象を理解するための学説のまとめ、とも言えるだろうし。

それはこれまでマスコミの仕事だった。そして出版社や新聞社は紙と印刷と製本、放送局は電波による放送設備、といった人々に届けるためのインフラを、出版社や放送局が大きくとりまとめてきた。つまり、インフラを業界内で完結させることが出来た、というよりその輪にあることが業界にいる、ということを意味した。
インターネットになると、こうしたものがすべて情報として流れ、見る側は端末を用意して接続する形になる。流通網の中抜きなどというレベルではなく、データ化して流してしまう以上、出版社や放送局はインフラそのものを握らない、握れない。
だからコストは減るはずだが、端末での見栄え、配送方法や売上管理なども含め、これまでの蓄積してきた手法・ノウハウとは異なる方法で経営していく必要も出てくる。(まぁ紙の本がすぐになくなるとも思っていないが。)

こういう事態においては、インターネットから端末を通して画面で見る場合、どのような形態なら疲れにくく、またどれくらいの情報密度や量・長さが快適なのか、そもそも画面という形ではなくもっといい形態がないものかなどを、真剣に考え直す必要があるはず。
そのような情報体験(情報を通じて何らかの体験をすることで、考えたり、感じたりすることを指している)には、そもそも書籍という形がいいのか、もっといい方法はないのか。
どういう情報体験をすれば、人々はそれに対価を支払いたいと思うのか、またそれで経済圏を興していくことはどうやれば可能になるのか。

つまり、書籍や雑誌という形を見直して、再定義するくらいの出来事であるはず。
また、それを行えばこそ、従来の書籍や雑誌、放送といったものの役割も、見直せるはず。

実際には、サービスを提供する人々がもっと増え、実験が積み重ねられるしかないのだが。
編集という作業の根幹が、知識や情報を集約して、みやすくインパクトが強い形で提供する、というところにあるのは変わらないだろうし、ネット企業云々というだけではうまくいかないのではないか。

***

また、自分の日々の暮らしを安定させることが出来て、少し楽しいことを体験出来ればいい、という人々だって少なくないだろう。
国も地域も文化も暮らしも平和で安定していて、日々やるべきことを淡々とこなし、時折起きる困難には誠実に対応して、少しずつ向上していけばいい、という考え方。

こういう場合は、インターネットで日々様々な情報が更新されていくのは、むしろ煩わしく感じられるくらいかもしれない。
変化は少しずつ、よくなる方向であってほしい…ならば、世の中全体に躁的な速度がついて、次々に学ぶべきことがあるのはむしろ、おそろしいかもしれない。チュニジアやエジプトではないが、あのような急激な政変が起こり、周辺諸国や貿易国などの経済状態に深刻な変化があるなら、隣近所に迷惑をかける火事みたいなもんだ、という感想さえあるかもしれない(革命や政変の当事者の気持ちに立っていない感想ではあるが、巻き込まれたくない人の感想として正直ではあるような)。

知る自由、考える自由を為政者がどう捉えるかは、独裁的な政治家がいる場合「役に立つ程度に教育して働いてもらう、よく頭の回る人間は取り立て、歯向かえば潰す」が常道である。
米国は民主主義・自由主義という観点から、個人の能力を最大化する人々が集って暮らす、というイメージをまとう、一種の実験国家的な役割を負ってきた部分がある。その点において、個人が主役であり、知る自由も最大化しようとする動きから、世界の知性を引き寄せてきた(一方で、個人の能力を加速させる生き方が前提であることに、つらさや哀しみなどを感じる人々もいる国でもあるが)。

ただし、先を見通す意見を持つ人々や、変化の落着点・コンセンサスを何となく感得出来る中間層がある程度いる、という前提がなければ、米国的な自由は機能し得ない。
だから、それぞれの地域の現状によって、インターネットの活用の方向性は変わってくる。

現状のエジプトでいえば、ムバラクの退陣については圧倒的多数が肯定しているが、その後で圧倒的多数が支持する勢力がみえにくい。そこにムバラクが居座り続けている隙がある(米国が見放したとはいえ、これまで長く米国の後ろ盾があった、という事実も含めて)。
混乱をうまく主導して、静かに政権移行をしていくのは、なかなか難しい。どの地域でも、東ドイツの崩壊と東西ドイツ統合のような運びに出来るとは限らない。
とはいえ、通信を遮断されると、海外から助けがあるなど、やはり通信と情報の重要性、というより必要性は多くの人々が感じ取っているところでもある。

***

今のような時に大切なのは、インターネットそのものに何か特別なものがあるわけではない、ということを踏まえておくことだと考えている。

インターネットは情報世界の空気のようなものであること。
それにより、各人の言動、思考、感情を、より速く遠くへ飛ばし合うことが可能であること。
ただし、それをどう受け取って運営していくかは、あくまで携わる人々による、と認識していること。

自由が、単なる混沌と無秩序といったものと一線を画するためにも、これは重要なことだ。

インターネット上に流れる情報はスムーズに流通していく必要がある一方で、それを見せるレイヤー(具体的には端末本体や、その上で動く情報ブラウザなど)において、選択的にみせる技術と運用も今後は視野に入ってくるかもしれない。
ただし、それは情報を提示する側、発した側が、こういう人々に見せるデータだという認識コードを埋め込むことで制御され、どこかで勝手なフィルタリングをかけないようにすることも、条件として必要だと考える。発する側が、自由意志をもって制御するという形だ。
さらに、本当に私的なデータは、会って相互の端末のみで(つまりインターネットを通さず)やりとりすることが一般化する方がいいかもしれない。離れた相手に送る場合にも安全な暗号化/簡単な解読手順が普及し、一定時間を経るとインターネット上から跡形もなく消失するようなことも必要かもしれない。

さらに踏み込むならば。
現在は多くの国々で、ネット企業と呼ばれる会社、たとえばAppleやGoogleやAmazonが、あるいはNTTドコモやauやソフトバンクが、あるいはソーシャルネット運営会社、ネットコンテンツの提供会社などが、これまでのビジネスをデータ化して、取り込む状況が続いている。
しかし、Appleは端末とそのコンテンツを売る会社だし、Googleはネット情報を集めて広告で儲ける会社、Amazonは書籍や様々な商品を扱うネット上の百貨店。携帯電話会社は、無線によるネットインフラを提供する会社(そのために端末やコンテンツに力を入れる)。そして、ソーシャルネットとは、人の繋がりを集積させることで、広告を含む情報圏と経済圏を作る会社。
それぞれやっていることや目的は異なる。
この中では、人を繋ぐソーシャルネットが、端末やインフラなどの一つ上のレイヤーで、社会的な要素を取り込みつつ変化し続けていく可能性が高い。

さらに言えば、インターネットが本当に広く普及して空気になる時、その上で暮らしていく社会のようなものも生まれるはずであり、それは最終的には現実の人に着地するポイントも出てくる、ということだ(逆に、あくまでヴァーチャルな自分を演出し続けるポイントもあるだろうけれど、人は100%一つの側面だけに縛られるものではないから、ある程度複数の側面を維持することだって十分あり得ると思う)。
現在のソーシャルネットはまだその途上であるし、それを私企業がやるのか、国や自治体等もやるのか、また個人がいくつものソーシャルネットに加わっていくことが常態化するのか、ソーシャルネットの次の存在が出てどんどん変化していくのか、といった様々なことは、これから体験(実験)していくしかない。

単純に楽観視をしているだけではないが、悲観視するだけではもっとよくない。インターネットを含む広帯域通信が空気のようになり、ネット企業やネット文化という言葉が過去のものになって、生活の一部に(老若男女などを問わず)溶け込みつつ、様々な地域をいがみ合わせずにやりとりしていく知性を、より多くの人々が共有していく…
可能かどうかはわからないが、そういう世界になっていくことを、個人的には望んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.02.01

インターネットによる情報流通の本質

朝日新聞の東京版朝刊には定期的に「知事発言から」という質疑応答の抄が載る。定例会見からの抄録だ。現在は「石原知事発言から」という見出し。
2011年2月1日の東京版朝刊には、1月28日の定例会見からの質疑が載った。「アニメフェア」「君が代訴訟」「性犯罪者にGPS」の3項目について、簡潔なまとめだ。
この中で、アニメフェアのことが気になった。

東京国際アニメフェア(東京都主催で知事が実行委委員長)の出展ブースが2割減ったこと、それが青少年健全育成条例改案に出版社などが反発したことが影響しているという質問をうけ、知事がコメントしている。その途中経過を略した形での記載。
全文引用するわけにはいかないし、リンクを記載したいのだが、アサヒ・コムには該当記事が見当たらない(知事発言から、の記事集が検索しても見つからない)。
なので、ざっくり要約してみる。

この間も出展をボイコットした社の雑誌にインタビューをうけたので、それはおかしいじゃないかと言ったが、インターネットにはもっとけしからん情報が流れているのにアニメ・漫画だけを販売規制するのはおかしいという(記者略)インターネットは日本全体で一つのメディアであって、国がコントロールすべき。都は都の範囲内で責任を果たしているだけ、本質を理解して協力してほしいし(記者略)もう少し冷静に意見交換をし合うほうがいいと思う。

元の記事が質疑の要約だし、意味が通るようにしようとすれば極度に短くも出来ないので、ある程度の長さになってしまった。関心を持たれた方は図書館などで新聞を直接どうぞ。
(本当はTOKYO MXで放映される知事会見を録画するといいのだろうが、それを毎週観られるとは限らないし、TOKYO MXは電波条件が都内でもよくない地域さえあるため、こういう要約はありがたい。)

閑話休題。石原都知事はつまり「インターネットは都だけで流通・管轄しているメディアじゃないから、国がやること。出版物は自治体ごとに定められる部分があるので、そこで必要な措置をとっているだけだし、(以前から何度も言ってきたように販売の条件をつけるだけで、出版そのものを規制などしていないのだから)過剰反応だ」と言いたいのだろう。
このアニメフェア云々のことが気にならないわけじゃないが、いまはおいておく。
気になるのは、石原都知事が、インターネットを日本全体のメディアと位置づけて、それを規制するのは国である、という考えを明示したことだ。

こうした発言はおそらく、携帯電話やパソコンのメールを郵便物の代替と捉え、またウェブブラウザ経由の情報を新聞・雑誌・書籍や放送・ビデオ・音楽CDなどの代替と捉える、という発想が背景にありそうにみえる。そして、インターネットは日本全体のメディアだから、そこでのコンテンツ購入などには国からの販売規制が必要だ、という発想に繋がってもいるようにみえる。
この憶測が違っていたとしても、少なくともこれは、インターネットの本質をほとんど理解していないことを示す。

念のために断っておくが、だからこの発言は意味がないと言いたいわけではない。
むしろ石原都知事に限らず、現在インターネットの本質をあまり知らない人が、それに触れたらどう考えるか、ということに興味がある、ということなのだ。

***

インターネットのそもそもの性質には、自由な情報流通と、中央管理機構の不在がある。

たとえば大学や企業や自治体などの組織では、組織内の複数のコンピュータを接続しあって、文書を共有したり、会議室を予約したり、組織内の決済を行ったりしている。組織の中だけの、いわばローカルなネットワークでコンピューターを接続し合っているから出来ることだ。
インターネットとはもともと、このローカルなネットワーク同士を結合するところから始まっている。
米軍の研究において、一箇所にコンピュータを集中させず、あちこちに分散させ、一箇所が攻撃を受けても、他が生き残っていることでしぶとくオペレーション実行を可能にする、ということを実証するためだった。大学、研究所同士を結び合う形で広がっていき、1980年代半ばまでには軍と切り離された存在となる。
そうなれば、民間の様々なコンピューター同士を結び合う形で広がっていく。もちろん接続する人々が飛躍的に増えれば、大きなサーバーを持つインターネット・サービス・プロバイダー (ISP) と呼ばれる企業が登場して、企業や個人、さらには国や自治体などのインターネット接続を請け負う形になる。
ただし、その技術の根幹は、ローカルなネットワーク同士を接続する形で、しぶとく生き残る分散型ネットワークとして発展を続けている。

つまり、インターネットに基づく便利な機能の多くは、公開された情報を自由に流通することが前提であり、またネットワークが次々に繋がっていくから、全体の中央管理機構のような「中心」を理論上は持たない、ということになる。
インターネットの出自と仕様から導き出される、インターネットの本質だ。

もちろん、特定の組織が、大量の情報を蓄えたサーバーを持ち、実質上のネットの中心のように機能するケースは存在する。Googleのような組織はその一例。が、万が一それがすべてのデータを破棄したり遮断したりしても、誰かが保存してあれば、別の地点でデータが生き続けることは可能、ということだ。
さらに、パソコンなどでファイル共有・データ交換を簡単に行えるP2Pソフトは、分散する様々なコンピューター同士を連結していくインターネットの性質を端的に表している(それだけに、その性質を理解し、使用時のリスクは理解すべき、とも言える)。

このような底抜けに楽天的な、自由への信仰表明と言えるような仕様は、情報を各個人に行き渡らせ、個人の行動や言説がより自由になって、活力ある社会の形成に向かう流れに繋がりやすい。
だから、単にウェブページで情報発信するだけでなく、ソーシャルネットで人と人が加速度をつけて繋がり、20世紀までの発想では考えられなかったような人間関係や経済圏の発展に結びつこうとしていく。
そこには、米国に代表される、個人の自由と尊厳を重視する民主主義国家の本能のような側面がある。一方で、米国でもそれ以外の国や地域でも、これまでのやり方を守りたい人々と、ネットを活用して新しい文化を築きたい人々との間でも、これまで考えられなかったやりとりが必要になる可能性が高い。

***

様々なニュースサイト、たとえばCNN、WSJ、Financial Times、Washington Post、Boston Globe、NewYork Times、BBCなどの英語圏のニュース、あるいはさらにフランス語や中国語なども含めた様々な言語のニュースサイトや掲示板などに直接触れるだけでも、日本のニュースメディアが報道しない情報が大量に流れていることがわかる(私はせいぜい英語だが)。日本に居ながらにして、英語だけでもざっと記事を眺め、日本のメディアが何を報道していないかを確認出来る。

また、2010年に中国政府とGoogleの間に係争があったことは記憶に新しいが、インターネットの本質的な自由を保証することを前提にするGoogleと、情報の流通を全面的に制御するのは国家として当然と考える中国との対立、ととらえられる。
さらに、チュニジアやエジプトなどで今現在進行中の、独裁による親米イスラム政権の倒壊や危機がインターネットを経由して起きたのも、その性質上当然とも言える。実際、米国政府はエジプトの混乱が長引くにつれて、ムバラク政権を見放すような発言に変化してきている。

Webページ、Twitter、ソーシャルネットなどを使えば、上記のような事件についても、現地の個人やジャーナリストが発する生の情報に触れられる。それだけでわかった気になるのはとても危険だが、TVからの受け身の映像だけではわからない、細かい側面を知ることはできる。
こうした情報の流通を、現在は(ニュースサイトや公開されたページなら)中学生でも英語を学びながら、読むことだってできる(ハードルは低くないとは思うが、すごく高いわけでもないはず)。

このようなネットの仕組みを今後も活用するには、国が情報流通の規制を敷くことが得策とは言えない。技術的に遮断するのではなく、公開されている情報にはアクセス可能だが、運用を適切に行っていくしかないのではないか。
情報流通を年齢や立場に応じて規制する仕組みを開発して導入したとすると、極端な言い方をすれば中国と同様のネット管理を始めるようなもの。たとえば、公式の声明で「18歳未満の青少年育成の保護以外の規制はかけていない」と言いつつも、実際は細かい規制を張り巡らせ、国民に余計な情報を知らせない仕組みとして運用することも可能であるから。そして、その仕組みを導入していないISPや携帯電話会社などは運用出来ないような法律が出来たら、文字通り、知る自由が奪われることになる。

一方、都知事の発言からは、ネットについても、放送や出版に相当するような規制を、国全体で設けるべきだと考えている、ということがうかがえる。
しかし、ネットワークを活用する社会は、単純にこれまでのやり方の延長上で類推して適用していくのは問題がある。もっと慎重になってもらいたいところ。

都知事は宮城県の「性犯罪者のGPS所持」に関する条例については驚いており、人権やプライバシーなど賛否両論出るだろうし、即答は出来ない、ただ思い切った措置だとは思う、といったことを述べていた。
なんでも規制すりゃいい、といった頭の固さがないなら、インターネットや漫画・アニメのあり方に対しても、もう少し柔軟な理解を示してほしいところだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年3月 »