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2011.02.01

インターネットによる情報流通の本質

朝日新聞の東京版朝刊には定期的に「知事発言から」という質疑応答の抄が載る。定例会見からの抄録だ。現在は「石原知事発言から」という見出し。
2011年2月1日の東京版朝刊には、1月28日の定例会見からの質疑が載った。「アニメフェア」「君が代訴訟」「性犯罪者にGPS」の3項目について、簡潔なまとめだ。
この中で、アニメフェアのことが気になった。

東京国際アニメフェア(東京都主催で知事が実行委委員長)の出展ブースが2割減ったこと、それが青少年健全育成条例改案に出版社などが反発したことが影響しているという質問をうけ、知事がコメントしている。その途中経過を略した形での記載。
全文引用するわけにはいかないし、リンクを記載したいのだが、アサヒ・コムには該当記事が見当たらない(知事発言から、の記事集が検索しても見つからない)。
なので、ざっくり要約してみる。

この間も出展をボイコットした社の雑誌にインタビューをうけたので、それはおかしいじゃないかと言ったが、インターネットにはもっとけしからん情報が流れているのにアニメ・漫画だけを販売規制するのはおかしいという(記者略)インターネットは日本全体で一つのメディアであって、国がコントロールすべき。都は都の範囲内で責任を果たしているだけ、本質を理解して協力してほしいし(記者略)もう少し冷静に意見交換をし合うほうがいいと思う。

元の記事が質疑の要約だし、意味が通るようにしようとすれば極度に短くも出来ないので、ある程度の長さになってしまった。関心を持たれた方は図書館などで新聞を直接どうぞ。
(本当はTOKYO MXで放映される知事会見を録画するといいのだろうが、それを毎週観られるとは限らないし、TOKYO MXは電波条件が都内でもよくない地域さえあるため、こういう要約はありがたい。)

閑話休題。石原都知事はつまり「インターネットは都だけで流通・管轄しているメディアじゃないから、国がやること。出版物は自治体ごとに定められる部分があるので、そこで必要な措置をとっているだけだし、(以前から何度も言ってきたように販売の条件をつけるだけで、出版そのものを規制などしていないのだから)過剰反応だ」と言いたいのだろう。
このアニメフェア云々のことが気にならないわけじゃないが、いまはおいておく。
気になるのは、石原都知事が、インターネットを日本全体のメディアと位置づけて、それを規制するのは国である、という考えを明示したことだ。

こうした発言はおそらく、携帯電話やパソコンのメールを郵便物の代替と捉え、またウェブブラウザ経由の情報を新聞・雑誌・書籍や放送・ビデオ・音楽CDなどの代替と捉える、という発想が背景にありそうにみえる。そして、インターネットは日本全体のメディアだから、そこでのコンテンツ購入などには国からの販売規制が必要だ、という発想に繋がってもいるようにみえる。
この憶測が違っていたとしても、少なくともこれは、インターネットの本質をほとんど理解していないことを示す。

念のために断っておくが、だからこの発言は意味がないと言いたいわけではない。
むしろ石原都知事に限らず、現在インターネットの本質をあまり知らない人が、それに触れたらどう考えるか、ということに興味がある、ということなのだ。

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インターネットのそもそもの性質には、自由な情報流通と、中央管理機構の不在がある。

たとえば大学や企業や自治体などの組織では、組織内の複数のコンピュータを接続しあって、文書を共有したり、会議室を予約したり、組織内の決済を行ったりしている。組織の中だけの、いわばローカルなネットワークでコンピューターを接続し合っているから出来ることだ。
インターネットとはもともと、このローカルなネットワーク同士を結合するところから始まっている。
米軍の研究において、一箇所にコンピュータを集中させず、あちこちに分散させ、一箇所が攻撃を受けても、他が生き残っていることでしぶとくオペレーション実行を可能にする、ということを実証するためだった。大学、研究所同士を結び合う形で広がっていき、1980年代半ばまでには軍と切り離された存在となる。
そうなれば、民間の様々なコンピューター同士を結び合う形で広がっていく。もちろん接続する人々が飛躍的に増えれば、大きなサーバーを持つインターネット・サービス・プロバイダー (ISP) と呼ばれる企業が登場して、企業や個人、さらには国や自治体などのインターネット接続を請け負う形になる。
ただし、その技術の根幹は、ローカルなネットワーク同士を接続する形で、しぶとく生き残る分散型ネットワークとして発展を続けている。

つまり、インターネットに基づく便利な機能の多くは、公開された情報を自由に流通することが前提であり、またネットワークが次々に繋がっていくから、全体の中央管理機構のような「中心」を理論上は持たない、ということになる。
インターネットの出自と仕様から導き出される、インターネットの本質だ。

もちろん、特定の組織が、大量の情報を蓄えたサーバーを持ち、実質上のネットの中心のように機能するケースは存在する。Googleのような組織はその一例。が、万が一それがすべてのデータを破棄したり遮断したりしても、誰かが保存してあれば、別の地点でデータが生き続けることは可能、ということだ。
さらに、パソコンなどでファイル共有・データ交換を簡単に行えるP2Pソフトは、分散する様々なコンピューター同士を連結していくインターネットの性質を端的に表している(それだけに、その性質を理解し、使用時のリスクは理解すべき、とも言える)。

このような底抜けに楽天的な、自由への信仰表明と言えるような仕様は、情報を各個人に行き渡らせ、個人の行動や言説がより自由になって、活力ある社会の形成に向かう流れに繋がりやすい。
だから、単にウェブページで情報発信するだけでなく、ソーシャルネットで人と人が加速度をつけて繋がり、20世紀までの発想では考えられなかったような人間関係や経済圏の発展に結びつこうとしていく。
そこには、米国に代表される、個人の自由と尊厳を重視する民主主義国家の本能のような側面がある。一方で、米国でもそれ以外の国や地域でも、これまでのやり方を守りたい人々と、ネットを活用して新しい文化を築きたい人々との間でも、これまで考えられなかったやりとりが必要になる可能性が高い。

***

様々なニュースサイト、たとえばCNN、WSJ、Financial Times、Washington Post、Boston Globe、NewYork Times、BBCなどの英語圏のニュース、あるいはさらにフランス語や中国語なども含めた様々な言語のニュースサイトや掲示板などに直接触れるだけでも、日本のニュースメディアが報道しない情報が大量に流れていることがわかる(私はせいぜい英語だが)。日本に居ながらにして、英語だけでもざっと記事を眺め、日本のメディアが何を報道していないかを確認出来る。

また、2010年に中国政府とGoogleの間に係争があったことは記憶に新しいが、インターネットの本質的な自由を保証することを前提にするGoogleと、情報の流通を全面的に制御するのは国家として当然と考える中国との対立、ととらえられる。
さらに、チュニジアやエジプトなどで今現在進行中の、独裁による親米イスラム政権の倒壊や危機がインターネットを経由して起きたのも、その性質上当然とも言える。実際、米国政府はエジプトの混乱が長引くにつれて、ムバラク政権を見放すような発言に変化してきている。

Webページ、Twitter、ソーシャルネットなどを使えば、上記のような事件についても、現地の個人やジャーナリストが発する生の情報に触れられる。それだけでわかった気になるのはとても危険だが、TVからの受け身の映像だけではわからない、細かい側面を知ることはできる。
こうした情報の流通を、現在は(ニュースサイトや公開されたページなら)中学生でも英語を学びながら、読むことだってできる(ハードルは低くないとは思うが、すごく高いわけでもないはず)。

このようなネットの仕組みを今後も活用するには、国が情報流通の規制を敷くことが得策とは言えない。技術的に遮断するのではなく、公開されている情報にはアクセス可能だが、運用を適切に行っていくしかないのではないか。
情報流通を年齢や立場に応じて規制する仕組みを開発して導入したとすると、極端な言い方をすれば中国と同様のネット管理を始めるようなもの。たとえば、公式の声明で「18歳未満の青少年育成の保護以外の規制はかけていない」と言いつつも、実際は細かい規制を張り巡らせ、国民に余計な情報を知らせない仕組みとして運用することも可能であるから。そして、その仕組みを導入していないISPや携帯電話会社などは運用出来ないような法律が出来たら、文字通り、知る自由が奪われることになる。

一方、都知事の発言からは、ネットについても、放送や出版に相当するような規制を、国全体で設けるべきだと考えている、ということがうかがえる。
しかし、ネットワークを活用する社会は、単純にこれまでのやり方の延長上で類推して適用していくのは問題がある。もっと慎重になってもらいたいところ。

都知事は宮城県の「性犯罪者のGPS所持」に関する条例については驚いており、人権やプライバシーなど賛否両論出るだろうし、即答は出来ない、ただ思い切った措置だとは思う、といったことを述べていた。
なんでも規制すりゃいい、といった頭の固さがないなら、インターネットや漫画・アニメのあり方に対しても、もう少し柔軟な理解を示してほしいところだ。

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