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2011.02.03

ネット企業、ネット文化、という言葉を過去のものにしたい

昨日「インターネットによる情報流通の本質」というエントリーをあげた。

都知事の発言から、インターネット利用の考え方の、だいぶ大きなところまで流れ着いた上で、もっとインターネットについて考えようという提起だけして、結論らしい結論は示していない。
もっとも、様々な地域や社会での常識の変化や混乱について、これさえ考えておけばいい、といった類の結論はおそらく示せないだろう。

とはいえ、少し補足しつつ、自分なりの現時点での考え方もメモしておきたい。メモなので、あまり整理はされていないかもしれないが。

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インターネットはその出自における仕様から、自由な情報流通と、中央管理機構の不在が特徴だと記した。

ただし、現実には米軍の研究から生まれた技術であり、暗号技術の根幹は米国(米軍)が握っている。逆にいえば、ネット上のデータの盗聴も可能である。
米国ではブッシュ政権時代に、テロその他の凶悪犯罪を未然に発見するための盗聴は合法化されているが、昨年9月にワシントンポストなどで報道された法案のように、オバマ政権に入ってからさらにソーシャルネットやTwitter、BlackBerry端末の通信なども盗聴対象と出来る方向に(政権や議会が)シフトしつつある。
確かにデータは自由に流れるし、普段は意識することはないが、監視の対象になる可能性は常にある。

また、中央管理機構がないのは理論上であって、昨日も触れたように、実際には強大なネットワークインフラを持つ国や地域、また大きなサーバに皆が利用出来るデータを集積する組織や企業が、一種のセンターとして機能する。
データが自由に流れるとすれば、高いところから低いところへ流れ着くように、やはり集積地帯というのが出来るのが現実である。そして、インターネット上の勢力を地図上で表すなら、経済格差の地図とほぼ近似して、経済大国にインフラも情報も集積する。

自由とはいえ、文字通りの理想的な意味での自由は、やはりない。

ただ、国境を越えて繋がっていけるだけに、ネットワークに接続出来る端末があれば、集積地帯の情報を離れた地点でも利用できる。
データはクラウドに預けていて自国にはないとしても、現地で起きている様々なことを、テキストや写真や動画などで公開していくことは出来る。
インフラが貧弱だと、通信速度などの問題で、気持ちよく使えない地域も多いだろうけれど、普段のTVやラジオだけでは得にくい知識や情報に、一足飛びにアクセス出来ることは事実。
一度そのような「知りたいと思ったことを知ることができる自由」に触れると、それは失いたくないものの一つになる、という人も多いだろう。

自由に知って考えることが出来るというおもしろさや喜びに、なんらかの形で触れられることが、インターネットのもたらす自由、というのが私の感じていること。
そのような考え方の背景には、米国流の自由主義、プラグマティズムが息づいているのは確かだが、自由に知り考える喜びという感情は、ヒトという種にかなり広く内在するのではないか。
つまり、インターネットのもたらす自由は、発祥の米国の理念とはまた違う形で、人々に受け容れやすい性質のものではないか、とも感じている。

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ただし、多くの人々が、書物だの雑誌だのネットだのを読み耽ってばかりいるのかといえば、もちろんそうではない。
それに、流れてくる言葉や文や音や映像を、ネタとしておもしろおかしく眺め、それでおしまい、という人がいても不思議ではない。またそういう人々をバカと責めるのもまた妙な話だ。様々な人々が存在するのが世の中なのだし、それを許容しないような体制は息苦しい。

とはいえ、「今、こんな生き方や仕事をするなら、このあたりを押さえておけばオッケー」ということを知りたくて、ネットに頼る人も多いはず。(現実には、ちょっと押さえておくだけだと、長く仕事として続けていくには不足であることがほとんどだが、ある種のノウハウを得ることで悩みが解消されることはあるから、一概に否定も出来ない。)
そういう時にはやはり、適切に編集された情報が重要になる。生のデータだけでは大きすぎて噛み砕くのに時間がかかるし、まとめがあれば助かるものだ。専門書などは、複雑な現象を理解するための学説のまとめ、とも言えるだろうし。

それはこれまでマスコミの仕事だった。そして出版社や新聞社は紙と印刷と製本、放送局は電波による放送設備、といった人々に届けるためのインフラを、出版社や放送局が大きくとりまとめてきた。つまり、インフラを業界内で完結させることが出来た、というよりその輪にあることが業界にいる、ということを意味した。
インターネットになると、こうしたものがすべて情報として流れ、見る側は端末を用意して接続する形になる。流通網の中抜きなどというレベルではなく、データ化して流してしまう以上、出版社や放送局はインフラそのものを握らない、握れない。
だからコストは減るはずだが、端末での見栄え、配送方法や売上管理なども含め、これまでの蓄積してきた手法・ノウハウとは異なる方法で経営していく必要も出てくる。(まぁ紙の本がすぐになくなるとも思っていないが。)

こういう事態においては、インターネットから端末を通して画面で見る場合、どのような形態なら疲れにくく、またどれくらいの情報密度や量・長さが快適なのか、そもそも画面という形ではなくもっといい形態がないものかなどを、真剣に考え直す必要があるはず。
そのような情報体験(情報を通じて何らかの体験をすることで、考えたり、感じたりすることを指している)には、そもそも書籍という形がいいのか、もっといい方法はないのか。
どういう情報体験をすれば、人々はそれに対価を支払いたいと思うのか、またそれで経済圏を興していくことはどうやれば可能になるのか。

つまり、書籍や雑誌という形を見直して、再定義するくらいの出来事であるはず。
また、それを行えばこそ、従来の書籍や雑誌、放送といったものの役割も、見直せるはず。

実際には、サービスを提供する人々がもっと増え、実験が積み重ねられるしかないのだが。
編集という作業の根幹が、知識や情報を集約して、みやすくインパクトが強い形で提供する、というところにあるのは変わらないだろうし、ネット企業云々というだけではうまくいかないのではないか。

***

また、自分の日々の暮らしを安定させることが出来て、少し楽しいことを体験出来ればいい、という人々だって少なくないだろう。
国も地域も文化も暮らしも平和で安定していて、日々やるべきことを淡々とこなし、時折起きる困難には誠実に対応して、少しずつ向上していけばいい、という考え方。

こういう場合は、インターネットで日々様々な情報が更新されていくのは、むしろ煩わしく感じられるくらいかもしれない。
変化は少しずつ、よくなる方向であってほしい…ならば、世の中全体に躁的な速度がついて、次々に学ぶべきことがあるのはむしろ、おそろしいかもしれない。チュニジアやエジプトではないが、あのような急激な政変が起こり、周辺諸国や貿易国などの経済状態に深刻な変化があるなら、隣近所に迷惑をかける火事みたいなもんだ、という感想さえあるかもしれない(革命や政変の当事者の気持ちに立っていない感想ではあるが、巻き込まれたくない人の感想として正直ではあるような)。

知る自由、考える自由を為政者がどう捉えるかは、独裁的な政治家がいる場合「役に立つ程度に教育して働いてもらう、よく頭の回る人間は取り立て、歯向かえば潰す」が常道である。
米国は民主主義・自由主義という観点から、個人の能力を最大化する人々が集って暮らす、というイメージをまとう、一種の実験国家的な役割を負ってきた部分がある。その点において、個人が主役であり、知る自由も最大化しようとする動きから、世界の知性を引き寄せてきた(一方で、個人の能力を加速させる生き方が前提であることに、つらさや哀しみなどを感じる人々もいる国でもあるが)。

ただし、先を見通す意見を持つ人々や、変化の落着点・コンセンサスを何となく感得出来る中間層がある程度いる、という前提がなければ、米国的な自由は機能し得ない。
だから、それぞれの地域の現状によって、インターネットの活用の方向性は変わってくる。

現状のエジプトでいえば、ムバラクの退陣については圧倒的多数が肯定しているが、その後で圧倒的多数が支持する勢力がみえにくい。そこにムバラクが居座り続けている隙がある(米国が見放したとはいえ、これまで長く米国の後ろ盾があった、という事実も含めて)。
混乱をうまく主導して、静かに政権移行をしていくのは、なかなか難しい。どの地域でも、東ドイツの崩壊と東西ドイツ統合のような運びに出来るとは限らない。
とはいえ、通信を遮断されると、海外から助けがあるなど、やはり通信と情報の重要性、というより必要性は多くの人々が感じ取っているところでもある。

***

今のような時に大切なのは、インターネットそのものに何か特別なものがあるわけではない、ということを踏まえておくことだと考えている。

インターネットは情報世界の空気のようなものであること。
それにより、各人の言動、思考、感情を、より速く遠くへ飛ばし合うことが可能であること。
ただし、それをどう受け取って運営していくかは、あくまで携わる人々による、と認識していること。

自由が、単なる混沌と無秩序といったものと一線を画するためにも、これは重要なことだ。

インターネット上に流れる情報はスムーズに流通していく必要がある一方で、それを見せるレイヤー(具体的には端末本体や、その上で動く情報ブラウザなど)において、選択的にみせる技術と運用も今後は視野に入ってくるかもしれない。
ただし、それは情報を提示する側、発した側が、こういう人々に見せるデータだという認識コードを埋め込むことで制御され、どこかで勝手なフィルタリングをかけないようにすることも、条件として必要だと考える。発する側が、自由意志をもって制御するという形だ。
さらに、本当に私的なデータは、会って相互の端末のみで(つまりインターネットを通さず)やりとりすることが一般化する方がいいかもしれない。離れた相手に送る場合にも安全な暗号化/簡単な解読手順が普及し、一定時間を経るとインターネット上から跡形もなく消失するようなことも必要かもしれない。

さらに踏み込むならば。
現在は多くの国々で、ネット企業と呼ばれる会社、たとえばAppleやGoogleやAmazonが、あるいはNTTドコモやauやソフトバンクが、あるいはソーシャルネット運営会社、ネットコンテンツの提供会社などが、これまでのビジネスをデータ化して、取り込む状況が続いている。
しかし、Appleは端末とそのコンテンツを売る会社だし、Googleはネット情報を集めて広告で儲ける会社、Amazonは書籍や様々な商品を扱うネット上の百貨店。携帯電話会社は、無線によるネットインフラを提供する会社(そのために端末やコンテンツに力を入れる)。そして、ソーシャルネットとは、人の繋がりを集積させることで、広告を含む情報圏と経済圏を作る会社。
それぞれやっていることや目的は異なる。
この中では、人を繋ぐソーシャルネットが、端末やインフラなどの一つ上のレイヤーで、社会的な要素を取り込みつつ変化し続けていく可能性が高い。

さらに言えば、インターネットが本当に広く普及して空気になる時、その上で暮らしていく社会のようなものも生まれるはずであり、それは最終的には現実の人に着地するポイントも出てくる、ということだ(逆に、あくまでヴァーチャルな自分を演出し続けるポイントもあるだろうけれど、人は100%一つの側面だけに縛られるものではないから、ある程度複数の側面を維持することだって十分あり得ると思う)。
現在のソーシャルネットはまだその途上であるし、それを私企業がやるのか、国や自治体等もやるのか、また個人がいくつものソーシャルネットに加わっていくことが常態化するのか、ソーシャルネットの次の存在が出てどんどん変化していくのか、といった様々なことは、これから体験(実験)していくしかない。

単純に楽観視をしているだけではないが、悲観視するだけではもっとよくない。インターネットを含む広帯域通信が空気のようになり、ネット企業やネット文化という言葉が過去のものになって、生活の一部に(老若男女などを問わず)溶け込みつつ、様々な地域をいがみ合わせずにやりとりしていく知性を、より多くの人々が共有していく…
可能かどうかはわからないが、そういう世界になっていくことを、個人的には望んでいる。

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