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2011.11.03

語り、文字記録、書物、雑誌、メディア、ネット、そして…

iPhoneがスマートフォンの定義を「通話も出来る通信常時接続型コンピュータ」に塗りかえた2007年以降、ことに日本では普及期に入った2009年以降、ネット(つまりインターネット)はこれまでよりずっと身近な存在になったように感じる。
それまでは、ネットやPCが苦手な人々(ことに50代以上の、あえて自宅にPCを入れる必要性をあまり感じない人々)にとっては、ケータイ=ネットであって、PCは出来るだけ触らないで済ませる、という状況と言えるくらいであった。
iPhoneおよびAndroidのスマートフォンが普及するに連れ、PCでしか見えなかったサイトを、手のひらに乗る小さな端末で見ることが当たり前になってきた。メールについても、PCメールとケータイメールを同じ端末で読み書きすることが当たり前になっている。
つまり、ケータイ vs PC経由インターネット、といった本来は無意味な対立概念が消えつつある、とも言える。

インターネットを通じたメッセージのやりとり、情報のはりつけや共有は、ついに一般的な行動となりつつあり、ソーシャルネットによる交流も場所に縛られなくなってきた。
写真も、音楽も、動画も、仕事や趣味の文書も、書籍も雑誌も、スマートフォンで扱うことが出来る。もちろん小さな画面で扱いにくい長い文書は、PCやタブレット端末で扱う方がいい。そういった場合であっても、仕上げや結果をスマートフォンで確認し、問題ないかチェックするくらいは出来る。インターネットを介して文書を保存・共有することで、端末を強く意識しなくても、同じ文書を扱うことが当然になりつつある。

まだ全国津々浦々、すべての年齢層に広がっているとは言えないだろう。ただ、この流れは押しとどめられないものとして、広がっていくはずだ。明らかに、圧倒的に便利なのだから。

逆にいえば、書く際の道具と、読むための道具がほぼ同じ(あるいは非常に似通っている)状態に、人類史上始めて入りつつあると言える……
というのは、実は妙、というより間違いだ。というのは、おそらく写経や写本が当たり前だった時代は、やはり読み書きの道具は非常に似通っていたのだから。紙に手で書き、それを巻物にしたり、冊子として綴じる。そうした冊子を、個人やコミュニティで貸し借りしあう。借りた人は、単に読むだけの場合もあったろうが、自ら写本して綴じることも少なくなかったろう。
そういうことが可能な人口層が非常に限られていたからこそ、印刷によって人々に配布・販売することは革命的だった。そして、それを読み、情報を得ることで、自分がそれまで入ることができなかったはずのコミュニティに参入して、親より社会的なポジションを上げることすら可能になっていった。だからこそ、文字を読んで咀嚼できるようになる教育が、重要になった。

ネットと各種端末は、こうした流れを拡充・加速していく可能性に満ちている。
印刷・出版や放送でなければ流しにくかった言説等を、本当に多くの人々が道具を得て言説や図、音や動画を配布することが可能な時代。
同じ端末で、読んで書くことが普通になる時代。
写本写経の時代に戻りつつも、写して移す労力は必要はない。データ化したものはすぐにでもばらまける時代。

書籍や雑誌、音楽パッケージ、放送といったものの概念が本当の意味で変化していくのは、これからなのだろうと思う。

***

では、文字がなかった頃、というより、あっても書き記す行為が、神官や書記官のような一部の層のみにひどく偏っていた頃はどうだったのだろう。

ソクラテスが、書かれた言葉を「死んだ会話」とみなしていたことは有名だ(たとえば「プルーストとイカ」といった著作に触れられている)。確かに文字には、対話における抑揚、相互に論を交わしていく動的な様は写し取れない。対話を重視した哲学者らしく、著述を一切残さなかった。彼の言動は、プラトンやクセノポンら弟子の著述を通じてしかわからない。(録音による音楽鑑賞を嫌った指揮者のフルトヴェングラーを少し連想させるところがある。)
仏教の開祖、ゴータマ・ブッダも自ら著作を残していない。応病与薬の対話で教えを説いたためだろう。弟子達は仏陀の言動を集め、詩のようなリズムにまとめて記憶した。数世代後、文字記録が行われて大きな経典が編纂されている。(さらに後世の教徒達が書き足した大乗経典も含めて、さらに経典は拡張していった。)
古代の、文字記録が一般的でなかった頃は、目前の相手とのやりとりにこそ大事なポイントがあり、それをあえて書き言葉で普遍化することに、どこか抵抗があったのだろうか。

確かに、書かれた言葉は、その言葉が発せられた環境や文脈から切り離される。
抽象的であると言えば聞こえはいいが、具象化するには自らの経験が投影される。その都度、何か違うものが入り込んでいく。
だから、古典には様々な注釈書がつく。大量の言説を投入して、文脈を与え、読みに方向性を持たせる。様々なコミュニティが、学派・流派として伝えていくようにもなる。
もっとも、生き物がDNAをコピーしつつ子孫へ伝えていくことを思えば、少しずつ違うオーラを宿しつつ伝わっていくのは、生物の本質なのかもしれないが。

***

では、現在のように、動画を編集してネット上で共有することが当たり前になった場合。
文字やテキストのみ、あるいはせいぜい図版が加わるのみの頃より、はるかに情報量が多くなった場合。
ソクラテスやブッダは、あるいはイエスらは、喜んでそこに登場するだろうか。

もしかしたら、するかもしれない。
ただ、音声も言葉も、記録されたものは、見ている人との動的な何かを引き起こすわけではないから、文脈まできちんと伝わるとは思わないだろう。そこは書き言葉と本質的な違いはないはず。
情報量がテキストに比べると多いから、それをうまく使えないかと考えて、何か見出せば活用する可能性はある。

私がこういうことを考えていて、少し思うことは。
書物という形にまとまったものを読む、書くのは自分のノート、という状況より、読み書きする道具も人と交流する道具も同じである方が、書き手や読み手とのやりとりを生み出しやすいのではないか、ということ。少なくとも、書き手や他の読み手とのやりとりのための労力は減り、時間も短縮される。それは活発なやりとりに繋げやすい。
もっとも、活発なやりとりと、それが充実した内容を持つかは別の問題であり、それは炎上などを含むマイナス面も持っている。
とはいえ、どのような言語と思考の共同体に自分がいるのか、相手はどうなのか、違いと共通点は何か、ということを考えながらやりとりをすることで、充実を指向することは可能だとも思う。
(動画や音声も交えるとさらに活発になるかについては、発散して収束しなくなるケースもあるだろうし、充実したやりとりになるケースもあり、二つの差はかなり広がるのではないかと感じているが、まだ考えがまとまっていない。)

人間は長く話し言葉を伝えてきたが、書き言葉が広がった頃から、抽象化・普遍化・コンパクト化に力を入れ、知識と思考を培い、そのあり方を教養と呼んだりしてきた。
ムダに見えるものも含めて、様々な情報を大量に流せる時代が来る時、書き言葉の普及以前と、普及以後の状況が、併存する時代になる、とも言える。どのようなコミュニティに所属していても。
そういう時代における知識や思考のあり方がどうなるのかについては、おそらく誰も知らないものとしか言い様がないだろう。

電子書籍などのあり方を考える時、こういうことは避けて通れないだろうと考えている。
まだ自分でも結論らしきものを得ているわけではないのだが、メモとしてここに貼っておく。

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