音楽

2012.03.06

2月の笙の演奏会

2月下旬、笙を携えて、サロンコンサートに出演してきた。
田島先生によるJohn Cageのソロ曲 "One9" がメイン。John Cage生誕100年、没後20年のメモリアルイヤーであり、Winds Cafeは1年その企画で走っている、その一つ。
私は助演として、その前後に古典雅楽曲から調子を吹く際に、合奏した。

現代の美術、音楽、演劇映画などに造詣の深いお客様が多い。緊張しても仕方ないので、いつものように淡々と吹き、ソロの間は静かに控えながら、間近で聴いていた。
John Cageの "One9" は、全部で2時間半ほどになる大作であり、そこから抜粋して50分弱ほど演奏されたのだが、なんといっても大きな特徴は、厳密な時間構成と、消え入るようなピアニッシモ。
笙に限らず、雅楽では大きな音量変化を要求されない。儀式音楽でもあり、人間的な感情表現を重視するタイプの様式ではないゆえ、だろう。楽器も、メゾピアノからメゾフォルテくらいで、あまり楽器にストレスをかけず演奏することが極めて多い。
そのため、消え入るような音を耳にすること自体、とても珍しい。現代の曲では、ないわけではないが、ここまで笙によるピアニッシモを追求した響きは稀だ。

それが、小さな会場で、それほど多くはない(しかし熱心な)聴衆の集中力により、音なき共鳴とでも言う空気を共有する。

自分が助演するのも忘れて、聴き入っていた。
1月下旬に捻挫して以来、足をサポーターで縛って練習し、本番に臨んだため、必ずしも本調子とは言い兼ねる状態だったが、近年助演などした中で、一番印象に残った演奏会となった。

ケージの年として、おそらく今年は様々な曲が奏でられるだろうが、その最初としても、深く印象に残った。

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2012.01.19

1月に入り、もう半月を過ぎた

2012年である。この正月は、休みが短めだった方も多いと思われる。そのせいか、あっという間に半月を過ぎていた。

例によってウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートや、歌舞伎の初芝居(2日の新橋演舞場ほかや、3日の国立劇場)をテレビから流していた。
ウィーンフィルの新年、今年の指揮は再登場のマリス・ヤンソンス。やわらかくゆったりした響きの中にも要所をしめ、チャイコフスキーを演奏したりして、新味を出そうとしていた。会場の反応をみても、響きの豊かさを聴いても、成功だったろう。ヤンソンスとウィーンフィル、このような華やかな演奏会と相性がよいようだ。

ただ、今年はあまり深く響いてこなかった。
こちらが変わったのだろうとは思う。
一方で、311の震災や夏の台風を経たから、というのはもっと違うように思う。

ウィーンフィルの新年についていつも思ってきたのは、20世紀半ばに始まった偉大なるマンネリを、今後も適度なフレッシュさを保ちつつ、続けていってほしい、ということ。
だから、天災震災を経たならなお、豪華な響きの美は続いてほしいと思っている。

私が感じているのは、18世紀以来続いてきた大規模指向のオーケストラというものが、そろそろ耐用年数の限界に近づきつつあるのではないか、という予感のようなもの。
もっとも、オーケストラが今の形に近くなったのは18世紀末〜19世紀に入ってからだ。これまでの欧州の音楽は、一つの音響形態がプラットフォームとして機能し始めると、300年ほど変化しながら続いていったから、21世紀あたりまでは続いてもおかしくない、という見方だって成り立つ。
ただ、それはヨーロッパが世界の辺境から中心になっていく過程での出来事だ(中世ではイスラム文化圏や中国文化の方が広がりをもっていた)。
さらに、20世紀にマスメディアが上げた情報伝達の速度は、現在ではさらに加速している。ITにより一般の人々がメディア的な機能を手にしたため、たとえばYouTubeにアップロードされた動画は、ネット経由でほぼ世界同時に認識できる(実際にそうしたことで流行が発生するのはほんの一握りだが、それはこれまでも同様だったろう)。

そう思うと、オーケストラの響きは、深々とした情感やノスタルジックな雰囲気を中心に移していき、また新しい地から、これまでと違う響きが伝わっていくような気配も感じる。
そんな気持ちから、年頭のオーケストラの響きを、あまり新鮮に感じなかったのかどうか。まだはっきりとはわからない。それに、世界中でほぼ同時に音楽や文化を味わえるなら、大きな変化が起きにくくなっているのかもしれない、という逆の考えも成り立ち得る。

などとグルグル頭の中を巡らせていくうちに半月が過ぎていた、というほど、このことを考え続けていたわけではないにしても。
オケ → 古楽(や世界の民族音楽)→ 雅楽、と歩いてきた自分の響きへの思いも、人文学や心理学や文学やITと広がってきた自分の考える領域も、そろそろ見渡して組み立て直す頃合いなのかもしれない、とは思った。

ともあれ。
皆様にも、自分にも、よき一年を祈念して。旧正月(1月23日)を前に。

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2011.01.07

謹賀新年 2011

松の内もおわり、いまさらながらですが。
あけましておめでとうございます。

いよいよ2011年も始まり…だが、今年は4日から仕事始めという方も多いはず。仕事始めが早かったけれど、焦るよりもちゃんと手応えをもって様々なことを進めていきたいところ。
このブログは一昨年後半から急激に更新頻度が減っていたが、今年はもう少しだけ更新していきたいところでもありまする。

ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートは、新音楽監督フランツ・ウェルザー=メストを迎え、ニューイヤーには珍しくリストの楽曲が入っていた(リストのアニヴァーサリー・イヤー)。
メストは堅実ながら流麗な棒さばき。人によっては地味で華やかさに欠けると評する向きもあったが、会場はおおいに盛り上がっていた。オーストリア出身の指揮者に、地元ならではの大喝采。
しかし、音楽は充実していたと思う。どの国の人も振り向く豪華な祝賀感は後退したが、むしろオーストリアらしい中音域が充実した響きと、メストらしい構造的な音楽の組み立てから、知的な歓びも伴っていた。C.クライバーや、小澤や、ムーティのような演奏だけがウィーン・フィルというわけではない。
内容の充実に裏打ちされた、ウィーン・フィルのニューイヤーらしい演奏だったと思う。クレメンス・クラウスを連想させる、というのもわかる。
例年の、グローバルかつ政治的な動きを伴う社交場としての音楽会から、音楽そのものを寿ぐ場に原点回帰させたようでもあった。

そういえば、新春二日の歌舞伎中継も、今年は地味だった。歌舞伎座がしばらくなくなり、大看板よりも中堅を前面に立てた公演ということもあるが、おそらく2010年春までにリソースを使い切るくらいやっていた、ということも意味したのだろう。

グルーポン申し込みのおせちがひどいものだったなど、新年早々ニュースに事欠かない幕開けだったが、こういう時ほど長く付き合えるサービス・製品・作品が大事なのかもしれない。
ともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。

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2010.05.08

実は出演したりしていた

4月25日、笙のみによる演奏会に、出ていた。
前半は笙のソロ(これは私ではない)。後半は笙8本による双調調子および小品の演奏。

文京区のお寺(栄松院)で、それほど人数が入らないため、ここでの告知は行わなかった。
ちょうどいいくらいの人が集まり、仏殿に8本が響き渡る様は、吹いている自分にも共鳴がよく感じられた。
雅楽器の演奏はやはり、広い木造の、オープンな構造が一番気持ちよく響く。

その前日には、国連大学で行われたイベント World Shift Forum のオープニングにも誘われて、参加した。
ゴールデンウィーク前に笙を吹き、ゴールデンウィークはむしろ地味だったが、こうした機会をいただくことはありがたい。笙という楽器の響きは、場を整える効果があるし、そこに参加できるのはやはり貴重な体験である。
お誘いいただいたこと、また参加にあたって協力してくださった皆様に多謝。

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2010.01.01

本年もよろしくお願いいたします

iPhoneにしてから、かえって更新頻度が下がっていますが。
タイトル通り「本年もよろしくお願いいたします」

相方の祖母が昨年亡くなり、喪中のお知らせを出さなければならなかったのに、気づくのが遅れて、出し損ねた。
というより、昨年は心療内科で相談できなければ、社会的な生活から逸脱していたかもしれぬ(死ぬとかそういうんじゃなくて、抑圧傾向が強くて不活発だったってこと)。
無理はせぬがよし、という助言とともに、社会生活に踏みとどまれた格好。
周りの方々に感謝もしておりまする。
というわけで、年賀状などは寒中見舞いとして、追ってお返事いたします。申し訳ありません。

***

大晦日は、クラシック・アーカイブで2009年のクラシック音楽をざっと見聞きしてた。
ラン・ランの冴えたピアノ、この方はもうひとつ大きくなってるなぁ。
ベジャール追悼のラヴェル「ボレロ」のモダン・バレェもじっくり楽しめた。
パーヴォ・ヤルヴィ、決してうまいとはいえないシンシナティ響から、彫りの深い音楽を引き出そうとしてた。響きは華やかさに欠けるけど、ドボルジャークの9番のような手垢にまみれた曲から、土俗的だけで片付けることができないリズムを引き出すなど、譜読みの深さは相変わらず。
来年はマーラー・イヤーだそうで、ゲヴァントハウス管弦楽団の1番をやってた。しかし、ほかにいい曲がなかったのかね、マーラーの中でも割とつまらない曲を…
むしろバーバー・イヤーであることもお忘れなく、というところじゃないかな。

んでもって翌日、紅白を録画でざっと(飛ばしつつ)流す。
元々この番組はどーでもいー方。音楽番組として、圧倒的な歌を聴ける機会が少なすぎる。ただ、数名チェックしたい歌手がいたので、録画。
大物ゲストや大量の踊り手など、物量作戦の大きさに驚いた。
個人的には(水樹奈々、木村カエラなどを一応チェックはしたんだけど)、メガ幸子のすばらしいやり過ぎと、スーザン・ボイル、アンジェラ・アキ以外、ほとんど何の感興もわかず。
あれだけ多くの歌手が、音程を低めにとってしまうのは、音響に根本的に問題があるのかもしれない。
祭典云々以前に、音楽番組としての基礎を見直すと、むしろもっとシンプルでよくなるんじゃないかと思う。メンツを捨てて物量作戦に出るなら、王道でいくべきではないかな。

紅白をざっと見てた理由は、ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート(ジョルジュ・プレートル指揮)の録画に、失敗してたから。なんと、録画するチャンネルのミス。
オレらしくもない。
まぁ新年に一発やっとくと、目も覚めていいだろうと、前向きにとらえることにしましょう。
皆様もよい正月を。

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2009.06.21

新オリエント楽派Liveの感想を今頃

Macがアレしたりして、ちと気分がのらなかったけど(いや更新回数はもともと少なめだけどさ)、戻ってきたし、そろそろ復帰を。

6月3日、平日の夜に、一風変わった音楽を聴いてきた。
新オリエント楽派2009ムジカーザLIVE。

新オリエント楽派の公式な情報は、こちらをどうぞ
作曲家の笠松泰洋氏がギリシャ劇「エレクトラ3部作」(王子ホールの委嘱作品)で集めた方々を中心に結成された、室内楽編成の楽団。というより、バンドと呼ぶほうが、性格をよく表しているかも。だから、コンサートではなく、LIVE。
クラシカルな音楽教養を身につけた方、中近東や中央アジアの古典音楽を身につけた方が集い、地中海から中近東を経て中央アジアにまたがる様々な音楽語法を掌握しながら、響きを紡いでいく。
ちなみに歌姫は、古楽ほか様々な分野のソプラノとして活躍中の広瀬奈緒氏。

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2009.02.16

室内楽こそ

少し前の話題だが、お茶の水にあるカザルスホールが2010年3月をもって閉館される。

バブル期を迎え、演奏会に足を運ぶ層が増えていく中、サントリーホールなど優れた音響空間を持つ大ホールが、再開発の一環として建設されていた。
お茶の水という落ち着いた街には、主婦の友社が建設したお茶の水スクェアの目玉施設として、室内楽専用のホールが生まれた。チェロの神様、パブロ・カザルスの名を冠して、カザルスホールと命名された。
ホールとして独自の企画を立てて運営し、そのためにも定期活動する弦楽四重奏団と契約するなど、今のクラシック音楽運営の走りとなる事業形態をとってきた。実際、とても面白い演奏会が多かった。日本で最初のフランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラの公演はここだったし、古楽普及期の1980年代後半から1990年代前半の演奏会はここを使うことが少なくなかった。ヴィオラを中心にした演奏会も独自の企画だったし、カザルス後のチェロの王様、ロストロポーヴィチも演奏した。十周年にパイプオルガンも設置した。
その後、主婦の友社はこの地を去ることが決まり、ホールの去就は話題となった。日本大学がお茶の水スクェアごと取得、名前を「日本大学カザルスホール」と改めたが、室内楽専用ホールとしての活動は継続してきた。

大編成のオーケストラとはまったく違った魅力が、室内楽にはある。
迫力や音響スペクタクルではなく、静かにたたずむ朝や夕べ、ふと感じるすてきな何か。
大人数のの統制がないからこそ溢れてくる、一人一人の息吹。
親密で、ゆったり話しながらも、突然人生の深淵に触れるような瞬間。
そんなものがあるからこそ、ハイドンやベートーヴェンの弦楽四重奏曲だけでなく、モーツァルトやブラームス、あるいはメシアンやプーランクのように管楽器を含む様々な編成の曲だって、多くの人々に愛されている。
室内楽こそ音楽の本質を秘めている。

しかし、ここを維持できないほど、日本では室内楽編成の客層は定着しにくい、ということなのだろうか。また、お茶の水から神田の書店街にかけて、かつてほどのにぎわいを見せていないこともあるのだろうか。
今は室内楽専用ホールが他にもある。特に王子ホール、トッパンホール。
だから、カザルスホールがなくなっても、室内楽専用ホールがなくなるわけではない。
ただ、こうした運営形態を始めたホールがなくなるということが、最大の衝撃だ。一度は閉鎖されかかったホールをあえて買い、運営してきた日大なのだから、他に選択肢がないと判断してのことなのだろう、そのことを一方的に非難することもできない。

それでも、指揮者の大野和士が、NHK「プロフェッショナル」で話していたことを思い出す。
過酷な状況の中でも、演奏会に人々は集まってくるのだ、人間は音楽を必要とするのだ、と。
言葉と音楽は、人間の生み出した最大の産物だと思う私も、同感だ。
だからきっと、新しい試みを始める人々が現れるのではないかとも思う。

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2009.01.08

正月あれこれ

あけましておめでとうございます。
三が日どころか、松の内もあけたところでやっとご挨拶となりました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

***

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2008.12.30

もうすぐ2008年も終わり

自分なりに2008年を振り返っておこう(そんな時間があるなら他にすることが、などと考えるとかえってストレスたまるし)。

米国発のバブル崩壊が今年最大のニュースだろうな、やっぱり。
同時に、オバマを大統領に選出したことも、大きなニュースだ。あの、政治経済における史上空前の実験国家は、いまだに実験の途上にあるのだと実感させる選択。

世間的には北京オリンピックも話題なのだろうが、一度見逃すとなし崩し的に見損ねた。

***

むしろ、オリンピック開催中の夏は、えらく長い小説がバンバン出てきたのが印象的。

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2008.11.04

ニケ指揮、ル・コンセール・スピリテュエルの東京公演(3)

前回の続き]

私がこの演奏会で少し驚いたのは、休憩後に演奏された合奏協奏曲への聴衆の反応が、他の曲に比べると少し薄かったこと。
この曲への反応は意外なくらい薄く、むしろ次の「水上の音楽」第3組曲で大きな拍手がやってきた。
おそらく、なじんだ曲であること、しかも見事な打楽器やリコーダーに、安心しながらも新鮮味があって、見事に感じられたからだろう。

しかし、この夜の白眉は、金管や太鼓が派手な曲よりも、この合奏協奏曲だったように思う。
大量のオーボエ(およびリコーダー)と弦楽合奏は、大所帯ゆえの鈍さなど皆無。指揮に皆が吸い寄せられて、まるで同じ情緒を味わっていると思えるほど、親密かつ高速な反応を繰り返していた。
そこからは、ヘンデルらしい、一見すると単純なのに、とてもつややかで恰幅のいい響き、しかも少し短調に寄った途端に出てくる、胸がスッとするようなはかなさが、存分に流れていた。
もののあはれとはこのことだ、というほどに。

音楽を聴き、そのあまりの見事さに、喜びとはかなさが同時に感じられてしまう。
それはどういうことなのだろう。

***

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