2012.01.19

またまた都市の書店の変化

昨年、渋谷の書店の変化というエントリーをあげた。

その後さらに、渋谷の文教堂書店は変わった。
2階をGEOに譲り、1階に書店機能を集中させた。書棚を高くしてみっしり並べる、今風の店舗。2階の文芸・人文・IT・マンガなどの書架にあった、落ち着きや解放感はなくなった。
その2階、リフレクソロジーの店はなくなった。Motoya Cafeは残ったものの、GEOの映画・音楽・ゲームの音が響いてくる様子で、以前とは雰囲気も変わった。
以前のような路線でやるなら、丸善ジュンク堂とは(地の利以外は)勝負にならないわけで、仕方なかったのか。しかし、これではTSUTAYAと被る気もする。

その丸善ジュンク堂、平日はあまり混雑してはいない。東急本店の中、渋谷では比較的奥まった地にあるから、わざわざ本を探しにくる人以外はあまり来ないのかもしれない。併設のカフェも空いている。

そうして、新宿三越の模様替え(三越アルコットとなった)で入ったジュンク堂新宿店は、あのビルがビックカメラになるために、この3月で閉店する。

池袋は、ジュンク堂とLibroの二強が確立して以来、割合安定している。その間に多くの中規模店が閉店したのもまた事実だが。
新宿や渋谷は、街の変化が激しい分、池袋よりも継続して変わっていくのだろうか。

書店/本屋に求められる機能が変わってきているのだが、それを新しい形で見せる店がまだない、そのブレークスルーが来る前、という印象もある。
そして、本も扱うTSUTAYAやGEOは、ゲームや音楽や映像ソフトが中心だが、ここも小売販売という市場が、ダウンロード販売で縮小する可能性が高くなっている。

ただ、店でブツを見ながらぶらつく、というのと、ネット上で情報の中をぶらつくのは、かなり性質の違う体験だ。
店という存在がどう変わるのか、また街がそれとともにどう変わるのか。
結論はおそらくまだない、というよりもあれば、誰かが大きく打って出るのだろう。

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2011.08.17

ラジオ会館、建替えに伴い一時閉館

秋葉原の電気街口を出てすぐの場所に長らくあった「世界のラジオ会館」が閉館、そのお別れの祭りが開かれていたそうだ。昨年の発表以来、一年以上の準備期間を経て、ついに一度閉館することになったわけだ。
PCWatchの記事はこちら

ゲーム原作をアニメ化している「シュタインズ・ゲート」は、UFO(実はタイムマシン)がラジオ会館の一部をぶち壊して出現するところから始まる。この作品が放映中に閉館されたことも、記憶に残りそう。

ラジオや無線通信(今の携帯電話ではなく、アマチュア無線から想像すべし)、さらにオーディオ機器がテクノロジーの華だった頃。また、秋葉原といえば電気街、電気街とはテレビとラジオとレコードとカセットに、白物家電が相場だった頃。その頃が、このビルの立ち上がりにあたるはず。
私はさすがにその頃の現役ではないが、小学生の頃にここを訪れ、カセットテープなどを購入していたから、その当時の残り香はかいでいたことになる。
マイコン/パソコンが華やかな時を経て、いまはフィギュアやサブカル書籍雑誌など、萌え文化の集結地となっていた。その一方で、オーディオやラジオ、ジャンク、部品などを扱う店も生き残っていたのが興味深かった。

自分は行けなかったのだが、上記の記事をみていると、屋上庭園や社長室など、実に興味深い。さらに、グッズやドリンク/フードなどが販売されて賑わうなど、ビル側が秋葉原の流れをある程度感じ取りつつ、一等地が絶えず盛り上がるよう運営されていたと推察される。
だからこそ、愛されてもいたのだろう。

7月末の店舗閉鎖に向けて、6月〜7月にかけて周辺のビル複数に、臨時ラジオ会館が出来上がり、そこで店舗が営業を続けている。仮店舗の多くは、ラジオ会館色(黄色と赤)がみえて、わかりやすい。旧LaOXザコン館には、ラジオ会館を飛び出した書店がドドーンと入っている。
その様子は、大きな花が種になり、パーンと周辺に飛び散ったような印象。

そうして、あの巨大なビルがまた新しくなると、そこに新たな花が咲くわけだ。

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2011.05.31

最近の東京

震災後、計画停電による強制的な節電地域が出たり、それが終わってからも積極的節電状態にあって、東京は全体的に暗い。
それでもゴールデンウィークに入ってからは、人出が戻りつつあるようだ。閑散としていると言われた浅草も、5月初旬はかなり賑わったと聞いた。
とはいえ、これまでネオンや灯りに強く照らされてきた渋谷、新宿、池袋などは、薄暗い中に人がたくさん出ていたためか、非日常感が強かった、というより今も少し引きずっている。そうして、妙にテンションが高い人々も多いように感じる。
(ちなみに、G.W.に京都に行ってきた方々によれば、ネオンなどを控えめにしている京都より、戻ってからの東京の方がずっと暗かったとか。)

そういえば、今年は規模を縮小という三社祭の直前(5月下旬)、浅草に少し足を伸ばしてみた。
所用のついでだったので、夜の8時前くらいに着いたから、土産物などの店はどんどん閉まっていく最中。この時期の浅草としては、人が少なかったと思う。
とはいえ、居酒屋などから漂う気配はいつもの落ち着いたもの。もともとネオンでピカピカの街ではないし、落ち着いた方が客層なのだろう、穏やかな笑い声があちこちから漏れていた。

散歩から山の手側に戻ってくると、4月よりは明るくなった(それでも以前よりは暗い)街で、歩く人々のテンションは以前より高いように感じる。
というより、この2ヶ月間の異常さはもういいでしょう、とでもいうような、妙なテンションの高さというほうがしっくりくる。
浅草の、あの穏やかな笑い声とは違う、ちょっとけたたましいような笑い。
そろそろ肩の力を抜いていくほうがいいのかもしれない。

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2011.05.06

ホテルフジタ京都のあとには

ホテルフジタ京都が今年1月に閉館したことについては、当ブログでも話題にした

その後の動きとして、米国の高級ホテル、リッツ・カールトンが跡地に進出予定であることが報道された。
たとえば、京都新聞のこちらの記事(4/30)。

客室140程度というのはほぼすべての報道で触れられているが、この記事によれば地上4〜5階とのこと。ホテルフジタより低層になるのか、天井を高くゆったりとって同じ程度の高さで4〜5階になるかはまだわからない。
ただ、盆地で広々とした平野の少ない京都は、ちんまりした客室のホテルが多かったが、ここは平均的にゆったりした造りにする、ということだろう。
そうして、よくある商業ビルにならないことがよかったかどうかは、2014年春以降にわかるのだろう。

ところ、ホテルフジタ京都に宿泊すると、客室に案内が置かれていて、その日時にある観光行事などがまとめられていた。
それは「かるがも通信」という名だった。フジタの庭にいた、かるがもの親子を思い出す。半地下の和食の店から、朝日の中を遊ぶかるがもの親子はかわいいものだった。(みながら朝食をとった。)
あのかるがも達は、どうなるんだろうなぁ。

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2011.02.07

春節

春節(旧暦正月)を迎えた横浜中華街に行ってみた。
最近はそう極端に混雑はしない。
だから、少し獅子舞を見て、めでたい爆竹の音で身体の周りに強烈な振動を浴びせたら、媽祖廟を拝観して散歩したら帰るくらいのつもりだったが。
想像以上の大混雑に驚いた。

中央通りも関帝廟通りも人で溢れ、ろくに前へ進めない。それ以上に、今現在どこで獅子舞があるかもわかりづらいし、爆竹の音に気づいても、なかなかたどり着けない。
こんなのは1990年代後半以来かもしれない。

逆に、それくらい最近は静かだった。新しい地下鉄が開通し、門が新しくなり、通りもきれいになったが、歩行者天国が歩きづらくなるほどの集客にはならなかった。
おまけに、JRのよこはまフリー切符が廃止された。これは、JR出発駅からの一日往復切符で、横浜の主な観光地に近いJRの駅が乗降自由になり、交通費が安くなったもの。代わりに、みなとみらいフリー切符500円が発売されたが、JRの移動が長い人にとっては実質値上がり。もしかすると、これも追い打ちだったのかもしれない。

だが、そんなことは何のその、今年の春節あけの土日はものすごい人手。媽祖廟で線香を捧げるのに人混み、お堂にも人がいっぱい。
そして、最近とても増えている、開運グッズやら運勢判断の店に人が押し寄せていた。
一体どうしたことだろう。今後は人が戻ってくるのだろうか。

一方で、数軒の閉店、移転もみかけた。昨年から今年にかけては、建て替えで廃業した古いバーや理髪店などもある(野球場寄りのホットドッグスタンドも、店主高齢化からついに閉店した)。
街が再び変化しつつあるのか。

***

1999年代の横浜は、桜木町の開発と対照的な野毛の存在、まだ古い建物や店がいくらか残っていた中華街、といった魅力で人が集まっていた。レトロがキーワードだった、といえるか。
横浜中華街は、他国のチャイナタウンのように、一人で歩けないくらい怖い、という場所がない。その上、台湾茶藝館ブームと呼応するようなレトロ感が残っていたことから、東京とちょっと違う気分を、一人でも大勢でも安心して味わえる街だ。デジカメブームが勃興した頃は、写真女子があちこちに出没していた。
2000年代に入り、ワールドカップも終わった頃から、横浜再開発があちこちに広がって、中華街を取り囲む建物が高層化し始めた。中華街自体も再開発できれいになり、高層ビルに向き合うように門を壮麗にした。また、中国の勢いが増し、池袋とともに、大陸から多くの人が入ってくる場にもなった。
レトロ感がなくなった後の魅力として、今の中国を感じさせる店と、これまでの安定した老舗とが、共栄する状態になるのに時間がかかっていたのだとは思う。
この活気の戻りが本格的なら、これまでとは違う発展も出てきそうだが、継続的なものだろうか。

それにしても、なんであんなに混雑していたのだろう。

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2010.09.05

ホテルフジタ京都が終わるという

7月、久々に京都に行ってきた。
ここ数年、あまり訪れる機会を作れずにいたが、祇園祭が終盤を迎える7月下旬、なんとか時間を作った。
今回は、原点の一人旅。最近は同行者がいるか、一人で訪れても誰かと会う予定が入ることが多い(昨年は一人旅だったが、引越の最中で日帰りだった!)。純粋に一人でフラフラするのは久しぶりだ。

原点回帰ならと、たびたび泊まってきたホテルフジタ京都に予約をいれた。
1990年代までは老舗ホテルとしてにぎわっていたが、2000年代はどうも静かなことが多いように感じる。
しかし、今でも地の利はある。木屋町二条は京阪三条や河原町と程々の距離があって静か、高瀬川や鴨川の落ち着いた風情も楽しめる。寺町二条の落ち着いた商店街にも、御池から三条・四条あたりの洛中繁華街も、徒歩圏内。
歩くことが苦にならないなら、楽しい旅になる場所だ。

しかし、今回ほど空いていると実感したことはなかった。
京都バブルはもう去ったのだろうし、祇園祭のクライマックスも過ぎている暑い夏とはいえ、こんなに人が少なかったことは記憶にない。
もちろん、ホテルの対応に不愉快なことはなかった。以前の、日本のホテルの標準となるような目配せのきいたサービスは、いまはどこでもなかなかうけられないものだ。おそらく以前より、人員も削減されている。ハードウェア(建物や設備)も最新のホテルよりやや見劣りはする。しかし、こちらの様子をみながら、無料のLAN接続をケーブル付きで勧めてくれたし、ドアボーイやフロントも丁寧に応対してくれた。掃除も行き届いていた。
素泊まりだったため、朝食時にどれくらいの混雑だったかがわからない。それでも、雰囲気として、落ち着いている以上に、静かすぎる印象を持った。
2000年あたりから、いつかは改装するだろう、その時にはどうするつもりなのかと思ったことがある。ついにこうなったか、それともこの時期だけかと、失礼ながら考えてしまった。

8月末、ホテルフジタ京都のメールサービスで、今後の観光案内とともに、2011年1月29日で営業終了になる、とあった。
驚いてWebで確認すると、トップページに8月5日付で支配人からの案内が出ていた。
賃貸契約終了に伴い、ホテルフジタ京都は2011年1月29日で営業終了、今後は同グループの京都国際ホテルの改装を進め、フジタのノウハウも集約させていくという。

少し調べてみると、ホテル単体としては赤字経営だったわけではないようだ。藤田グループの負債圧縮の一環として、土地建物を積水ハウスに売却した上で、賃貸して営業を続けていたという。
ということは、かつてほどではないにせよ、繁忙期は賑わっているのだろう。
積水ハウスが用途を決めたので賃貸契約を更新しない、というのが真相かもしれない。
が、考え方を変えれば、鴨川の落ち着いた風情ではなく、二条城前の観光ホテルとしての賑わいをとったことになる。

***

考えてみれば、自分だって京都に慣れるにつれ、また京都の変化に伴い、動線は変わってきている。

京阪三条ターミナルは、以前は市バス、京都バス、京阪など様々な便の要所だったし、そこに程よく近いホテルフジタはいい立地だった。2000年あたりからターミナルが再開発され、京阪の中心地となった。市バス停留所は動き、利用者は川端通や河原町、御池などを使うほうがラクになった。

自分の動線も、河原町を歩くことが減り、寺町と烏丸通の間を歩きながら楽しそうな店を見つけることが増えた。現地をよく知る人に教えていただいた店へ直接赴くこともあるが、そういう店は繁華街とは限らない。
京都は長らく、東寄りに人が密集する傾向があったが、地下鉄が通り、京都駅が改装された頃から、少し西へと分散し始めているように見受ける。
さらに、四条から御池の河原町周辺に人が集中しなくなっているせいか、烏丸通に近いビジネスホテルに泊まる人も少なくない。

鴨川の地を失うことが本意かどうかはわからないが。
木屋町二条の鴨川よりも西にあり、二条城前という絶好の観光資源が残っているなら、むしろ西に動いて、海外からも日本からも様々な人が集結する観光ホテルという立場を活かすことも、一つの方法だ。

***

それでも、思い出す。
心身の不調を抱えていた頃、たまには息抜きしたいと、医者に相談して薬も出してもらった上で、ホテルフジタ京都に泊まったことがある。
案の定、気分が悪くなり、食欲もわかない。予定を変更し、フロントで一番近い医者を相談したところ、ホテルに通ってもらっている医者がいるという。すぐは無理だが、昼過ぎには可能とのことで、連絡をとってもらった。それまで部屋で休んだ。
昼過ぎ、現在服用している薬を見せた上でみていただくと、軽い風邪だろうとのこと、併用しても問題ない薬を処方の上、夜になっても気分が悪いようなら、明日もみると約束してくれた。
服用してしばらく寝た。午後6時すぎにはいくらか気分がよくなり、少し食欲も出てきた。ツレと軽くうどんでも食べに出ようと1階に下りると、フロントが気を遣ってくれた。食べてから戻った際、快方に向かったため、翌日の診察は不要と告げると、ほっとした様子が伝わってきた。

寝て、たまに起きると、部屋から見える鴨川をぼーっと眺めた。冷房がほどよくきいた部屋で、静かに鴨川をみていると眠くなる、それを3セットほど繰り返した。
午前、午後、夕方。その都度、東山と鴨川の表情が変わる。気分こそ悪いが、静かで心地よい部屋にいると、昼間に出かけないのも悪くない、などと苦笑した。通いの医者がいるホテルならではの安心感だろうが、鴨川が見えることがこれほど慰めになるとは思わなかった。

それに、朝食を地下の和食でとると、バイキングでないため、朝定食を運んでもらえる(最近はどうなっているか知らないが)。いちいち立ち上がってとる必要もなく、じゅうぶんな量が出る。ご飯はおひつでやってくるから、大食いでなければお腹いっぱいになる。
窓の外は石と水の庭。春夏は、ここにかるがもの親子がやってくる。ぜんまい仕掛けのように動くかるがもの子らを眺めつつ、ゆっくり食べる。楽しいものだ。
そういえば、部屋においてあるコピーの観光案内(今の季節のお祭りや行事などを掲載)は、かるがもだよりという。
有名なステーキハウス近江に入らなくとも、施設を利用するだけでちょっといい気分になれるのは、いいところだと思う。

鴨川沿いの、あのホテルに泊まれない…というのは、自分にとって京都の景色が一つなくなることを意味する。
それはやはり、さみしく残念である。

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2010.04.21

さよなら歌舞伎座

少し時間的な無理をおして、さよなら歌舞伎座公演の最終月を見てきた。延ばし延ばしにしていたら、もう10日ほどしか残っていないし!
夜の部、実録先代萩(じつろく せんだいはぎ)と、助六由縁江戸桜(すけろく ゆかりのえどさくら)。昼の部は今日は無理、そして今月は行けるかどうか…

実録先代萩は、中村芝翫の乳人が、幼い中村宜生らと競演。そして浄瑠璃の大熱演。
助六は、團十郎、玉三郎、勘三郎、左團次、仁左衛門に菊五郎ほかと、これ以上ないくらい豪華なラインナップ。口上は来月新橋演舞場で助六を演じる海老蔵。
團十郎と玉三郎が豪華なのはもちろんだが、韓信の股くぐりをやる通人役の勘三郎が、大笑いをとるアドリブで笑えてくるやら泣けてくるやら。
ばかばかしくて威勢が良くて華やいで、ほんの少ししんみり終わる助六で、現在の歌舞伎座とはさよなら。芝居で笑った分、出てくるととても名残惜しい。

それにしても、日比谷の三信ビルがなく、東銀座の歌舞伎座もなくなると、自分が育ちながら見てきた銀座の美しい建物が、消えてしまう感じ。
次も美しい建物になってほしいが、それ以上に、歌舞伎座の台詞や浄瑠璃が聞こえやすい舞台を、次もうまく継いでくれるとうれしい。

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2009.09.20

久々の神保町の静けさ

シルバーウィークとかいう4連休 or5連休の真っ最中。
よく晴れて、10月みたいに気持ちよい。

先週のうちに追加の本棚を導入して、本は一応棚に収まった。平面展開されている(つまり床に積まれた)本が、ない。引っ越して、面積が広くなったことを初めて実感した。
まだ自分の私物で片づけが済んでないものがあるが(苦笑)、暮らしはかなり整いつつある。
映画「サマーウォーズ」もやっと見ることができた。
でも、その感想の前に、記しておきたいことが出てきた。

***

ここのところ疲れていたので、昔よく訪れた九段下→神保町→秋葉原、というコースを散歩して、気晴らししようとした。

神保町を通して歩いたのは、実は久々なのだが、気がつくと表通りに面した古書店は減っており、またこぎれいな店が増えた分、大量の書物が圧縮されている印象は薄らいでいる。人も、思ったより少ない。
おそらく現在、古書の専門性において、神保町は東京随一でなくなってきているのではないか。
夜に人がほとんどいなくなる街は、書物の集積度で人を圧倒して集客してきたはずなのだが、もはやその持続も難しくなっているような印象を受ける。
元々落ち着いた場所であり、そこが好きだったが、寂しさが漂うような街ではなかったはずだ。

近くにありながら興隆している秋葉原は、ビル化による再開発や、オタク文化への注目だけが原因ではないと思う。
ヨドバシやゲームショップのように夜にも開いている店が出てきたこと。
飲食店が増えたこと。そのため、購入した電気製品、本や雑誌、マンガ、CDやDVD、ゲームなどを開封して、その場で仲間と確認し合える場になっていること。そのため、ダラダラ長くいる人々が増えて、結果的に街が活況を呈していること。
元々専門性の高い街だっただけに、街が広がって、飲食店とともに営業時間が拡大して、人が長く滞在するようになったことが大きいのではないか。

神保町の夜の寂しさは、特に最近は格別だ。居酒屋はともかく、古瀬戸珈琲店やさぼうるのような店以外に、ゆっくり出来る場所が少ない。平日の夜はまだ大学関係者や勤務中の人々が出入りしているが、休日の静けさは以前では考えられない。
本の街では、泥酔よりほろ酔い、もしくはしらふで、本と談笑が大事だろう。それが夜になると消えてしまうなら、あまり人が寄り付かなくなるのも道理かもしれない。1970〜1980年代半ばの銀座の商店がそうであったように(その後、銀座は夜7時以降も開ける店が増え、賑やかさを取り戻している)。

思うに、夜8時か9時まで開いている書店が増え(開業時刻はやや遅くなってもかまわないかも)、それに伴って、夜にも食事とお茶主体、軽くアルコールも飲める、落ち着いた店が増えること。
同時に、専門性の高い古書店が、集積度を再び上げていけるような環境を、整えること。
この2点が循環するだけでも、丸の内などに近い地の利を活かした、街の再生になりそうに思えてきた。
というか、あれだけ本屋が集まっている街から、文化の香りがしなくなるのは、さびしいとかより、残念なのだ。
そうして、文化の香りとは、多少うさんくさいものも含めて、人の集中も必要に思う。

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2009.08.20

河原町はどうなってるのか

引越準備の合間を縫って、日曜日は音楽パーティ。引越以前に企画していたし、休む気はなし。
ヘンデルのリコーダーソナタ(変ロ長調)、一応は吹けた。技術的には中級の入り口くらいだしね。
んが、練習量が少なすぎて、タンギングと呼吸の制御がぴっちりあわなかったので、音色がやや雑(リコーダーのような、吹けば鳴る楽器の場合、タンギングと呼吸が音色のかなりの部分を決める、人によって異なる音が出るものです)。
ここがしっかりしないと、表現の足腰が強くない…
笙はタンギングを基本的にしないので、そちらをやっていると、衰えてくる。もうちょっとやらないと。

そして、月曜日。思い立って、京都に行ってきた。ただし、時間がないので、日帰り。
少し前から、京都の神社でいただいた古いお札が気になっていた。近くの神社の納札所でもよかったのかもしれないが、気になってしまった以上、いただいた神社でお返ししたくなった。ついでに、しばらく見ていない街並みだけでも見てこよう、と。

***

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2009.07.14

中華街の昨今

むー、ずいぶん放置しちまった。その間、TwitterとTwitterとTwitterをやったりしていたのだが、実際問題としてiPhoneとTwitterは相性がよすぎるとさえ断言できる。

それはともかくとして、遠隔地への見舞いなどで、東京国際ブックフェアに行き損ねてしまった。
これにあわせて電子書籍関連の発表がいくつかあったので、気にはしていたのだが、仕方ない。
iPhoneやAndroid関連もあるのだが、またの機会にして。

横浜方面の展示会や所用の帰りに、たまに足を伸ばして横浜中華街などに訪れることがある。
バブル経済とともに老舗が経営拡張して、バブル崩壊とともにいくつか大きな店舗が閉鎖されるような事態もあったが、基本的に1990年代までは、戦前から移り住んだ中国出身の方々の手でにぎやかに発展している印象があった。
ここ数年は、これまでの料理店などが世代交代や売り上げ減少などで店を閉めることも出てきた。その後はたとえば、中国のコンクールでトップをとったシェフの店、といった具合に、最近移ってきた方々が開業するケースが多い。
また、中華街そのものの人手も、以前ほどではないような印象を受ける。あくまで印象なのだが、しかし金曜の夜にみっしり人が出てこない週がある、というのは、以前はあまりなかったのではないか。
なんで人の密度が低くなっているのだろう。

さらに時々耳にする言葉「今は中国に気軽に行けるし、東京にもおいしい店は多いし、わざわざ横浜中華街に行かなくても…」
これについては、私は少し違う感触を持っている。

横浜中華街も、神戸も長崎も、みんな港町にできた移民の街であること。
さらに、よその国のchinatownは独自のルールに則っていて、夜は注意して歩いたほうがいい地区もあるが、日本では周囲の人と仲良くつきあっていくことを前提に、発展してきたこと。チャイナ・マフィアの暗躍は聞かないこと(あったのかもしれないが、表にはほとんど出てきていないと思う…勘違いかもしれないけれど)。
それでも、早朝や、深夜には、ほかの日本の街とは違う、独特の表情を見せること。

これは非常に珍しい現象であり、日本という国にとけ込みつつも、移民としての立ち位置をうまく制御してきた結果だろう。
私が時折中華街を訪れるのは、そうしたたくましさと柔軟さをあわせもつ彼ら/彼女らの地域の空気をたまに吸いに行く時、という気持ちもある。

日本に根付いて、むしろ移民であることをうまく商売に結びつけつつ、地元にもそれなりになじんで客を大切にしてきた人々の街だからこそ、安心して遊びに行ける。
それを日本人が楽しまなくなるなら、むしろさみしいことのように思う。

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