フランクリンプランナーとGTD -- Opus Dominiを使い始めた理由
私は2001年頃からフランクリンプランナーを使ってきたが、GTDに出会って2007年に切り替えた。iPhoneが登場し、GTDアプリが出てきたことも大きい。
ただし、GTDを使いながらも、何となくフランクリンプランナー的な処理方法を馴染ませられないかと考えてきた。
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私は2001年頃からフランクリンプランナーを使ってきたが、GTDに出会って2007年に切り替えた。iPhoneが登場し、GTDアプリが出てきたことも大きい。
ただし、GTDを使いながらも、何となくフランクリンプランナー的な処理方法を馴染ませられないかと考えてきた。
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iPod/iPhoneを使うようになって以来、イヤホンがやたら気になってる人は、結構多いはず。
私も実はそうなってしまった。
だいぶ前のことだが、iPod付属のイヤホンに業を煮やし、ShureのE4cを使うようになった。単に音がいいというより、静けさの中からきっちり立ち上がる音に、気持ちまで鎮まるように思えて、購入を決意した。それがきっかけだ(というより、そうさせたiPodがきっかけではあるが)。
Shureのイヤホンは2年保証になっている。使用中に断線などがあっても、購入2年以内(かつ正規代理店での購入)なら、交換してくれる。
この時に思ったこと。
「Shureは、すばらしいイヤホンを売るだけでなく、すばらしい音に心動かされる経験を2年保証するために、製品を売っているのだな」
iPod本体より高いイヤホンだ。そう思わなければ、やっていられない(苦笑)。
そして、いい経験を買えたと思ってもらうことで、次もShureを選んでもらおうとしているわけだ。
それと同じようなことを、再び考えさせられた。
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iPhoneがスマートフォンの定義を「通話も出来る通信常時接続型コンピュータ」に塗りかえた2007年以降、ことに日本では普及期に入った2009年以降、ネット(つまりインターネット)はこれまでよりずっと身近な存在になったように感じる。
それまでは、ネットやPCが苦手な人々(ことに50代以上の、あえて自宅にPCを入れる必要性をあまり感じない人々)にとっては、ケータイ=ネットであって、PCは出来るだけ触らないで済ませる、という状況と言えるくらいであった。
iPhoneおよびAndroidのスマートフォンが普及するに連れ、PCでしか見えなかったサイトを、手のひらに乗る小さな端末で見ることが当たり前になってきた。メールについても、PCメールとケータイメールを同じ端末で読み書きすることが当たり前になっている。
つまり、ケータイ vs PC経由インターネット、といった本来は無意味な対立概念が消えつつある、とも言える。
インターネットを通じたメッセージのやりとり、情報のはりつけや共有は、ついに一般的な行動となりつつあり、ソーシャルネットによる交流も場所に縛られなくなってきた。
写真も、音楽も、動画も、仕事や趣味の文書も、書籍も雑誌も、スマートフォンで扱うことが出来る。もちろん小さな画面で扱いにくい長い文書は、PCやタブレット端末で扱う方がいい。そういった場合であっても、仕上げや結果をスマートフォンで確認し、問題ないかチェックするくらいは出来る。インターネットを介して文書を保存・共有することで、端末を強く意識しなくても、同じ文書を扱うことが当然になりつつある。
まだ全国津々浦々、すべての年齢層に広がっているとは言えないだろう。ただ、この流れは押しとどめられないものとして、広がっていくはずだ。明らかに、圧倒的に便利なのだから。
逆にいえば、書く際の道具と、読むための道具がほぼ同じ(あるいは非常に似通っている)状態に、人類史上始めて入りつつあると言える……
というのは、実は妙、というより間違いだ。というのは、おそらく写経や写本が当たり前だった時代は、やはり読み書きの道具は非常に似通っていたのだから。紙に手で書き、それを巻物にしたり、冊子として綴じる。そうした冊子を、個人やコミュニティで貸し借りしあう。借りた人は、単に読むだけの場合もあったろうが、自ら写本して綴じることも少なくなかったろう。
そういうことが可能な人口層が非常に限られていたからこそ、印刷によって人々に配布・販売することは革命的だった。そして、それを読み、情報を得ることで、自分がそれまで入ることができなかったはずのコミュニティに参入して、親より社会的なポジションを上げることすら可能になっていった。だからこそ、文字を読んで咀嚼できるようになる教育が、重要になった。
ネットと各種端末は、こうした流れを拡充・加速していく可能性に満ちている。
印刷・出版や放送でなければ流しにくかった言説等を、本当に多くの人々が道具を得て言説や図、音や動画を配布することが可能な時代。
同じ端末で、読んで書くことが普通になる時代。
写本写経の時代に戻りつつも、写して移す労力は必要はない。データ化したものはすぐにでもばらまける時代。
書籍や雑誌、音楽パッケージ、放送といったものの概念が本当の意味で変化していくのは、これからなのだろうと思う。
では、文字がなかった頃、というより、あっても書き記す行為が、神官や書記官のような一部の層のみにひどく偏っていた頃はどうだったのだろう。
ソクラテスが、書かれた言葉を「死んだ会話」とみなしていたことは有名だ(たとえば「プルーストとイカ」といった著作に触れられている)。確かに文字には、対話における抑揚、相互に論を交わしていく動的な様は写し取れない。対話を重視した哲学者らしく、著述を一切残さなかった。彼の言動は、プラトンやクセノポンら弟子の著述を通じてしかわからない。(録音による音楽鑑賞を嫌った指揮者のフルトヴェングラーを少し連想させるところがある。)
仏教の開祖、ゴータマ・ブッダも自ら著作を残していない。応病与薬の対話で教えを説いたためだろう。弟子達は仏陀の言動を集め、詩のようなリズムにまとめて記憶した。数世代後、文字記録が行われて大きな経典が編纂されている。(さらに後世の教徒達が書き足した大乗経典も含めて、さらに経典は拡張していった。)
古代の、文字記録が一般的でなかった頃は、目前の相手とのやりとりにこそ大事なポイントがあり、それをあえて書き言葉で普遍化することに、どこか抵抗があったのだろうか。
確かに、書かれた言葉は、その言葉が発せられた環境や文脈から切り離される。
抽象的であると言えば聞こえはいいが、具象化するには自らの経験が投影される。その都度、何か違うものが入り込んでいく。
だから、古典には様々な注釈書がつく。大量の言説を投入して、文脈を与え、読みに方向性を持たせる。様々なコミュニティが、学派・流派として伝えていくようにもなる。
もっとも、生き物がDNAをコピーしつつ子孫へ伝えていくことを思えば、少しずつ違うオーラを宿しつつ伝わっていくのは、生物の本質なのかもしれないが。
では、現在のように、動画を編集してネット上で共有することが当たり前になった場合。
文字やテキストのみ、あるいはせいぜい図版が加わるのみの頃より、はるかに情報量が多くなった場合。
ソクラテスやブッダは、あるいはイエスらは、喜んでそこに登場するだろうか。
もしかしたら、するかもしれない。
ただ、音声も言葉も、記録されたものは、見ている人との動的な何かを引き起こすわけではないから、文脈まできちんと伝わるとは思わないだろう。そこは書き言葉と本質的な違いはないはず。
情報量がテキストに比べると多いから、それをうまく使えないかと考えて、何か見出せば活用する可能性はある。
私がこういうことを考えていて、少し思うことは。
書物という形にまとまったものを読む、書くのは自分のノート、という状況より、読み書きする道具も人と交流する道具も同じである方が、書き手や読み手とのやりとりを生み出しやすいのではないか、ということ。少なくとも、書き手や他の読み手とのやりとりのための労力は減り、時間も短縮される。それは活発なやりとりに繋げやすい。
もっとも、活発なやりとりと、それが充実した内容を持つかは別の問題であり、それは炎上などを含むマイナス面も持っている。
とはいえ、どのような言語と思考の共同体に自分がいるのか、相手はどうなのか、違いと共通点は何か、ということを考えながらやりとりをすることで、充実を指向することは可能だとも思う。
(動画や音声も交えるとさらに活発になるかについては、発散して収束しなくなるケースもあるだろうし、充実したやりとりになるケースもあり、二つの差はかなり広がるのではないかと感じているが、まだ考えがまとまっていない。)
人間は長く話し言葉を伝えてきたが、書き言葉が広がった頃から、抽象化・普遍化・コンパクト化に力を入れ、知識と思考を培い、そのあり方を教養と呼んだりしてきた。
ムダに見えるものも含めて、様々な情報を大量に流せる時代が来る時、書き言葉の普及以前と、普及以後の状況が、併存する時代になる、とも言える。どのようなコミュニティに所属していても。
そういう時代における知識や思考のあり方がどうなるのかについては、おそらく誰も知らないものとしか言い様がないだろう。
電子書籍などのあり方を考える時、こういうことは避けて通れないだろうと考えている。
まだ自分でも結論らしきものを得ているわけではないのだが、メモとしてここに貼っておく。
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俗にいう「薄い本」とは、コミケなどで販売されるエロ同人誌(18禁)のことであるが、ここでは単純に言葉通りの意味で、厚い本と薄い本の話。
前のエントリーで、渋谷を例に最近の書店の変化について思うところを記してみた。
ビジネス書が棚の一等地を占めているが、それは発売直後の瞬間売上の高さが期待され、その中からベストセラーが出ることも期待されるから、ということだ。
かつてそれは、文芸書が担っていた時期がある。ビジネス書がそこを占めるようになったのは、手帳やメモを使った自己開発本やライフハック系がよく売れているからだろう(自己啓発本というと、かなりデムパな内容も含まれるので、自己開発本とあえて記した)。それに加えて、経済的な知識、それに絡む数学的な知識、組織論などを噛み砕いて伝授する本も広く売れている。
そうして、それらビジネス書が文芸書と異なるのは、経験に基づいて「こーすればあーなる」とはっきり記されている点だ。
また、女性向けの、きれいになる/結婚がうまくいく/独立できる/お金に困らないなどのエッセイ的カルチャー本も、心や頭の使い方に関するノウハウ本とみなせば、広い意味でのビジネス書とみなせる。
こうしたビジネス書で広く共通するのは、文字がびっしり書かれていなくて、行間も上下も広く、大事なポイントと心構えが主に記されていて、あまり厚くない(つまりページ数も多くない)こと。200ページない本も少なくない。
行き帰りの電車の中でサラリと読めて、休み時間や仕事中に役立つものが中心、というところか。
一方、とても分厚いビジネス書もある。
海外で出版されたものの翻訳だ。
少々古いが卑近なところだと、フランクリン・プランナーという手帳システムを活用するための、エンジンのようなノウハウを伝える「七つの習慣」などもそうだ。
こうした(主に米国発の)ビジネス書には、ある種のフォーマットがある。
献辞と前書きがあり、ここでその書籍の目的と学習内容、さらに章ごとの構成が語られる。
最初の章で現在の人々に共通する問題点が提示され、それを解決するための方策があるのだ、と伝えられる。
そこから、順を追って項目ごとに一つの章が割り当てられ、最後の章でそれらを総合して、提示された問題が確かに解決される、と確認される。
各章では、一つの問題点と、その解決のメソッド、メソッドを適用した実例が複数語られる。場合によっては、演習問題も設定される。そうして、章のまとめが箇条書きとして提示される。
その繰り返しで、最後の章に至る。
これらは欧米の、ことに米国の論文やマニュアル執筆のパターンである。アカデミックな場でも、極端に大きな違いはない(厳密度はまったく異なるが)。
こうした厚い本は、上記のように非常に細かい例、また例外や失敗談などが掲載されているものだ。
日本語訳ではこうした細かい例を割愛してしまう書籍も中にはある(それでも日本でよく売られている薄いビジネス書よりは厚めになる)。
しかし、それはほんとうに翻訳と呼べるものなのか。
なぜ米国ではこのような分厚いパターンが継続されているのかは、意外に重要なポイントだ。
たとえば、自分の生活時間をうまく組み立てる、習慣をよりよく組み立てる、また対人関係を向上させるためなどの、重要な秘策を提示した場合。
読み手はそれに慣れていないはずである(慣れていればあえて買わないだろう)。
そうなると、秘策の重要ポイントを読んだだけだと、自分勝手な解釈をして、うまくやっているつもりでも実は的外れになっている可能性は高い。
そのようなことが起きにくくなるように、卑近な例から困難な事態まで、様々な例を掲載して、適用方法や例外などについて、読者に知らしめる必要がある。
それらを知った後で、まとめの箇条書きを読むことに、マニュアル本の意味はある。
文芸書で売れないものが増えていることと、面倒な例を省いた箇条書きに近いビジネス書が売れていることは、いくらか関係があるように感じることがある。
細かいこと、面倒な例や失敗談を読まず、こーしてあーしてそーすればうまくいく、という言葉だけを浴びていたい、という願望を叶えるような本が売れることになっていないだろうか、ということ。
何より、厚い本を読まなくなるということは、頭の筋力が衰えていくようなもの。
一部のエネルギッシュな人ばかりがバリバリ本を読んでいるのは知っている。一方で、薄いビジネス書だけで済ませようとする人が増えているのだとしたら、ちょっとこわい気もする。
杞憂であることを祈っているし、自分も気をつけないと、とは思うが。
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渋谷の大盛堂書店が総合書店であることを諦め、センター街入り口の駅前書店に移行してからだいぶ経つ。渋谷の書店事情はさらに変化した。
大盛堂書店なきあと、渋谷の総合書店と呼べたのは、ビル丸ごとだったBook 1st。規模は劣るが、地下道・地下鉄直結の旭屋書店も、地下の1〜2階を使って効率よく本を並べる便利な書店だった。
旭屋書店は閉店し、しばらく空き店舗だった。
一方、Book 1stはビル店舗を手放した。そのビルに入ったのは、ファストファッションブランドのH&M。そうして、以前旭屋書店があったところに、Book 1stが移った。
2010年には、東急百貨店本店の中に、丸善ジュンク堂渋谷店が開店、ここが渋谷の最大規模書店の座をとった。
宮益坂側は、文教堂書店が渋谷青山界隈を意識した店を開いている。2階にはカフェ、リフレクソロジーの店舗が入っている。
そこから坂を上って青山方面に向かえば、ABC(青山ブックセンター)がある。ただ、ここは渋谷からだいぶ歩くし、青山のイメージが強い場所。
以前東急文化会館裏にあった山下書店は、東急文化会館を含めた地域再開発の対象となり、閉店した(山下書店は東急線改札の近くに、中規模の渋谷南口店を構えている)。あのあたりは書店だけでなく、モスバーガー、パスタや牛タンなどの飲食店、ドトールコーヒー、マンガ喫茶などもひしめいて、なかなか素敵な裏道だったが、来年春の渋谷ヒカリエとして生まれ変わることになる。
こうして並べると、ABC、丸善ジュンク堂を除けば、ビジネス書とサブカル中心の中規模店ばかりが目立つ状況。
そして、こうした動きは、関東の主な繁華街でも大きな違いはない。神保町でさえ、かつての書店集結地としての賑わいが薄まってきている。
本、というものに求められるもの、さらに本屋に何を求めて入るかも、違ってきているようだが、では次の手は何か。それはしかし「はっきりしているなら、もうやっている」というのが書店側の正直な感想でもあるのだろう。
ただ、サブカル云々よりも、ビジネス書の棚の広がりのほうが、私には印象的だ。それが皆の求めるもの、ということに現在はなっている、といえるのかどうか。
ビジネス書は、高成長はなくとも当たるとしばらく売れる点で、昔の文芸書みたいな印象がある。
また、ケータイ小説のように、一瞬火がついて、暫時消えていく状況ではない分野でもある。
このことについて、少し思うところがあるが、また別エントリーであげてみる。
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GTDベースのソフトウェア、Thingsは、当ブログで時折取り上げてきた。
Mac版、iPhone/iPod touch版、iPad版がそれぞれある。
今年の2月初旬のアップデートで、すべての版に対して、繰り返し処理に関するアップデートが行われた。
一番大きな変更は、iPhone/iPod touch版、iPad版の両モバイル版でも繰り返しタスクの追加や変更が可能になったこと。
長らくフルセット版と言えるのはMac版だけであり、Macで設定や追加などを行い、iPhoneは出先での作業を行い、必要に応じて同期する状況だった。この変更により、モバイル版でも重要な機能をほぼ実装出来たことになる。
個人的には、タスクのキャンセル(設定したタスクを完了チェックせず、そのタスクがなくなったものとして扱う機能)がモバイル版ではまだ実装されていないことが残念。
とはいえ、機能的には他のGTD / To Doソフトウェアと比べて見劣りする部分はほぼ解消され、モバイル版の単体運用も可能なレベルに達したと言える。
開発しているCulturedCode社は現在、クラウドへのバックアップ機能に注力しているようだが、そのβ版の募集が5月に始まった矢先、AppleからiCloudが発表された。Appleの動き次第でまた変化があるのか
ただ、Thingsはシンプルさを保つために、独特の使い勝手になっている。
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日米に限らず多くの国でiPhoneが牽引してきたスマートフォン市場だが、日本でもいわゆるガラパゴスケータイの機能を取り込んだり、特徴ある機能を持つAndroid搭載機が増えてきた。
こんな記事もある(Gigazine、5/11)。
その割にはiPhoneばかりを見かけることが多いが、これは先行してシェアを獲得していった強みなのだろう。Android機もちらほら見かけるので、あと半年もすれば街に溢れてくると思われる。
スマートフォンとは何かというと、もともとかなり曖昧な定義の言葉。
言い出したのはNokiaとSymbian(携帯端末のOSを提供している)。2000年頃、メールや小さなブラウザを載せた高機能電話のことを指していた。2.5Gか3Gの高速通信も推奨され、機種によっては簡単なオフィスソフト(ワープロ、表計算、プレゼンツール)も搭載。
西欧ではNokia + Symbianが市場を拡大する中、北米はRIMのBlackBerryと、MSのWindows CE搭載電話機が機能競争をしていた。北米はむしろBlackBerryの一人勝ちといってもいいくらい、世界市場ならNokiaの勝ちだが、総体として今ほど大きな市場にまだ育っていなかった。
この頃は多くの国で、通話ベースの携帯電話が主流であり、北米のBlackBerryはともかく、ほかのスマートフォンが現在ほど世界中で大きな市場を形成している状態ではなかった。
そちらの方向へ進むとわかってはいても、価格が高くなること、3G展開に成功しているのが日本と韓国中心という状態であることから、広く世界で歓迎されているほどではなかった。
一方、1999年〜2000年代前半なら、日本はドコモのiモードを筆頭に、au、J-Phone→Vodafone(現ソフトバンクモバイル)がそれぞれ、メールとインターネットの可能な携帯電話を一斉に展開していた。
しかも液晶画面のカラー化、カメラ搭載とメール送信、Javaによるアプリ追加、内蔵ICカードによる決済機能(おさいふケータイ)など、矢継ぎ早に機能を強化。スマートフォンなどという言葉が流行る前に、なんでも呑み込むケータイ市場が事実上出来上がっていた。
Appleは2007年初頭、「携帯電話を再定義する」と宣言して、iPhoneを投入した。
むしろスマートフォンを再定義するという方が正確だったと考えるが、ともかく「インターネットができる携帯電話」ではなく、「通話も出来るポータブルコンピュータ」という新しいカテゴリーを創出することに成功した。
当初のiPhoneは2G〜2.5GのGSMベースで通信する機種であり、アプリ追加はまだ不可能で、Webアプリを使うものだったが、未来的で官能的ともいえる操作感に、世界中が騒然となった。
翌2008年には3Gの高速通信に対応した新機種を投入。OSのAPIを開発者に公開し、iTunes Storeでアプリをダウンロード/インストール出来る仕組みも整えた。
この機種で、ポータブルコンピュータとしての基盤はほぼ整い、日本を含む多くの国で爆発的に売れた。実際、この年を境にNokiaのシェアは下がり続けている。つまり、スマートフォンの牽引役・定義者が交替した、ということでもあった。
また、iPodシリーズにもiPhoneから通話機能とGPSを除いたiPod touchシリーズが登場、iPodの主流となっている。
2009年のiPhons 3GS、2010年のiPhone 4と堅実な向上を重ねていくにつれ、ガジェット好きだけでなく、一般ユーザの人気も獲得して、ソフトバンクモバイルのユーザ数増加の一翼を担い続けている。
一方で、携帯電話のキャリアを変更したくない人々は、iPhoneに似た端末を求めるようになり、それが今の日本でのスマートフォン市場活況に繋がっている。
ところで、スマートフォンにつくsmartとは、頭がよい/利口/機知にとんだ/効果的な、といった意味だ(主に米国)。また、きびきびした/動作が機敏な、という意味もある。英国圏では、身なりが整った/颯爽とした、といった日本での用法に近い意味もあるそうだが、smartphoneという言葉に宿る意味合いとしては、コンピュータ搭載で賢く色々な処理が出来る電話、といったニュアンスになるだろう。
日本でこうしたガジェットについてあまり詳しくない人々の会話には、どうもスマートフォンを「すっきりとボタンがなく、スラリと薄い、板状の電話」と捉えていることが時折ある。
もちろん話は通じるのだが、見た目のすっきりした携帯電話ととらえてもあまり問題にならないのは、これまで日本のケータイが、スマートフォンを先取りした機能をすでに持っていたこともあるように思われる。買ってきた状態で出来ることに、極端な違いはみえにくいのかもしれない(もちろん使用感は全然違うのだが)。
スマートフォンを「スマホ/スマフォ」と略するあたり、既に本来の定義などどーでもよくなってる(苦笑)わけで、つまり一般化したということなのだろう。
そうなるにあたっては、いわゆるガラケーも結構たくさんの機能があるから、理解しやすい土壌はある程度出来上がっていたのかもしれない。
それにしても、食べ物の名前みたいなこの略語、私はあまり馴染めないんだな。一般化したことは慶賀すべきことであるのだが。
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断続的に注視していたエジプト。ついに民衆の声が軍や米国(といった後ろ盾)を動かして、ムバラク大統領を辞任に追い込んだ。(ニュースは山ほど流れているし、あえてリンクははらない。)
デモで血は流れた。それは悲しいことだが、様々な人々が「今のままでは埒があかない!」と声をあげ、軍は民衆に銃口を向けず、強権独裁政治を終わらせようという点で一致した。
その後は軍が臨時に管理機能を掌握したが、民主的な憲法を定める移行期間に限定し、新憲法が動き出したら権限を握らない、これまでの国際条約も遵守する、とも明言した。
エジプトに向かけた米国(エジプト軍への支援国である)のメッセージはふらつき、後手にまわったが、現在のところ最悪の事態は免れているとみているのだろう、落ち着いてはきた。
今回の政治体制変更は、大統領辞任後の絵図がないこと、運動には背景となる思想や方向性が一致していないことから、これはいわゆる革命ではない、という声もある。
ただ、これまで声を汲まれにくかった若者らが、ネットを軸に開放的な連携を示し、それに市民が賛同して、自分達に可能なことをやることで、政治体制に声を届けたということは、革命的な事態と呼びたくなる。
それに、今後のシナリオをきちんと考えて着実にやれる保証がなければ進まない、などとしていたら、変更可能なことも変えられなくなる。
今後の推移によっては、このような陽性の革命が継続しなくなる可能性もあるが、今回のように「これさえ押さえてくれれば合意出来る」というポイントを見出しつつ前へ進み続ければ、新しい政治体制変更の例として、歴史に刻まれるのではないか。
日本では、やはり「このままでは埒があかない」と、選挙で政権党を交替させた。その結果は、前と同じか、それ以上に迷走している。
エジプトでも似たようなことが起きるのかもしれないが、それでも若者が声をあげたあの国は、間違ったらまたやり直せばいいという陽気さがありそうにみえる。
日本でも、皆がもっと陽気に、気軽に、試行錯誤してみればいいだけなのかもしれないね。
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昨日「インターネットによる情報流通の本質」というエントリーをあげた。
都知事の発言から、インターネット利用の考え方の、だいぶ大きなところまで流れ着いた上で、もっとインターネットについて考えようという提起だけして、結論らしい結論は示していない。
もっとも、様々な地域や社会での常識の変化や混乱について、これさえ考えておけばいい、といった類の結論はおそらく示せないだろう。
とはいえ、少し補足しつつ、自分なりの現時点での考え方もメモしておきたい。メモなので、あまり整理はされていないかもしれないが。
インターネットはその出自における仕様から、自由な情報流通と、中央管理機構の不在が特徴だと記した。
ただし、現実には米軍の研究から生まれた技術であり、暗号技術の根幹は米国(米軍)が握っている。逆にいえば、ネット上のデータの盗聴も可能である。
米国ではブッシュ政権時代に、テロその他の凶悪犯罪を未然に発見するための盗聴は合法化されているが、昨年9月にワシントンポストなどで報道された法案のように、オバマ政権に入ってからさらにソーシャルネットやTwitter、BlackBerry端末の通信なども盗聴対象と出来る方向に(政権や議会が)シフトしつつある。
確かにデータは自由に流れるし、普段は意識することはないが、監視の対象になる可能性は常にある。
また、中央管理機構がないのは理論上であって、昨日も触れたように、実際には強大なネットワークインフラを持つ国や地域、また大きなサーバに皆が利用出来るデータを集積する組織や企業が、一種のセンターとして機能する。
データが自由に流れるとすれば、高いところから低いところへ流れ着くように、やはり集積地帯というのが出来るのが現実である。そして、インターネット上の勢力を地図上で表すなら、経済格差の地図とほぼ近似して、経済大国にインフラも情報も集積する。
自由とはいえ、文字通りの理想的な意味での自由は、やはりない。
ただ、国境を越えて繋がっていけるだけに、ネットワークに接続出来る端末があれば、集積地帯の情報を離れた地点でも利用できる。
データはクラウドに預けていて自国にはないとしても、現地で起きている様々なことを、テキストや写真や動画などで公開していくことは出来る。
インフラが貧弱だと、通信速度などの問題で、気持ちよく使えない地域も多いだろうけれど、普段のTVやラジオだけでは得にくい知識や情報に、一足飛びにアクセス出来ることは事実。
一度そのような「知りたいと思ったことを知ることができる自由」に触れると、それは失いたくないものの一つになる、という人も多いだろう。
自由に知って考えることが出来るというおもしろさや喜びに、なんらかの形で触れられることが、インターネットのもたらす自由、というのが私の感じていること。
そのような考え方の背景には、米国流の自由主義、プラグマティズムが息づいているのは確かだが、自由に知り考える喜びという感情は、ヒトという種にかなり広く内在するのではないか。
つまり、インターネットのもたらす自由は、発祥の米国の理念とはまた違う形で、人々に受け容れやすい性質のものではないか、とも感じている。
ただし、多くの人々が、書物だの雑誌だのネットだのを読み耽ってばかりいるのかといえば、もちろんそうではない。
それに、流れてくる言葉や文や音や映像を、ネタとしておもしろおかしく眺め、それでおしまい、という人がいても不思議ではない。またそういう人々をバカと責めるのもまた妙な話だ。様々な人々が存在するのが世の中なのだし、それを許容しないような体制は息苦しい。
とはいえ、「今、こんな生き方や仕事をするなら、このあたりを押さえておけばオッケー」ということを知りたくて、ネットに頼る人も多いはず。(現実には、ちょっと押さえておくだけだと、長く仕事として続けていくには不足であることがほとんどだが、ある種のノウハウを得ることで悩みが解消されることはあるから、一概に否定も出来ない。)
そういう時にはやはり、適切に編集された情報が重要になる。生のデータだけでは大きすぎて噛み砕くのに時間がかかるし、まとめがあれば助かるものだ。専門書などは、複雑な現象を理解するための学説のまとめ、とも言えるだろうし。
それはこれまでマスコミの仕事だった。そして出版社や新聞社は紙と印刷と製本、放送局は電波による放送設備、といった人々に届けるためのインフラを、出版社や放送局が大きくとりまとめてきた。つまり、インフラを業界内で完結させることが出来た、というよりその輪にあることが業界にいる、ということを意味した。
インターネットになると、こうしたものがすべて情報として流れ、見る側は端末を用意して接続する形になる。流通網の中抜きなどというレベルではなく、データ化して流してしまう以上、出版社や放送局はインフラそのものを握らない、握れない。
だからコストは減るはずだが、端末での見栄え、配送方法や売上管理なども含め、これまでの蓄積してきた手法・ノウハウとは異なる方法で経営していく必要も出てくる。(まぁ紙の本がすぐになくなるとも思っていないが。)
こういう事態においては、インターネットから端末を通して画面で見る場合、どのような形態なら疲れにくく、またどれくらいの情報密度や量・長さが快適なのか、そもそも画面という形ではなくもっといい形態がないものかなどを、真剣に考え直す必要があるはず。
そのような情報体験(情報を通じて何らかの体験をすることで、考えたり、感じたりすることを指している)には、そもそも書籍という形がいいのか、もっといい方法はないのか。
どういう情報体験をすれば、人々はそれに対価を支払いたいと思うのか、またそれで経済圏を興していくことはどうやれば可能になるのか。
つまり、書籍や雑誌という形を見直して、再定義するくらいの出来事であるはず。
また、それを行えばこそ、従来の書籍や雑誌、放送といったものの役割も、見直せるはず。
実際には、サービスを提供する人々がもっと増え、実験が積み重ねられるしかないのだが。
編集という作業の根幹が、知識や情報を集約して、みやすくインパクトが強い形で提供する、というところにあるのは変わらないだろうし、ネット企業云々というだけではうまくいかないのではないか。
また、自分の日々の暮らしを安定させることが出来て、少し楽しいことを体験出来ればいい、という人々だって少なくないだろう。
国も地域も文化も暮らしも平和で安定していて、日々やるべきことを淡々とこなし、時折起きる困難には誠実に対応して、少しずつ向上していけばいい、という考え方。
こういう場合は、インターネットで日々様々な情報が更新されていくのは、むしろ煩わしく感じられるくらいかもしれない。
変化は少しずつ、よくなる方向であってほしい…ならば、世の中全体に躁的な速度がついて、次々に学ぶべきことがあるのはむしろ、おそろしいかもしれない。チュニジアやエジプトではないが、あのような急激な政変が起こり、周辺諸国や貿易国などの経済状態に深刻な変化があるなら、隣近所に迷惑をかける火事みたいなもんだ、という感想さえあるかもしれない(革命や政変の当事者の気持ちに立っていない感想ではあるが、巻き込まれたくない人の感想として正直ではあるような)。
知る自由、考える自由を為政者がどう捉えるかは、独裁的な政治家がいる場合「役に立つ程度に教育して働いてもらう、よく頭の回る人間は取り立て、歯向かえば潰す」が常道である。
米国は民主主義・自由主義という観点から、個人の能力を最大化する人々が集って暮らす、というイメージをまとう、一種の実験国家的な役割を負ってきた部分がある。その点において、個人が主役であり、知る自由も最大化しようとする動きから、世界の知性を引き寄せてきた(一方で、個人の能力を加速させる生き方が前提であることに、つらさや哀しみなどを感じる人々もいる国でもあるが)。
ただし、先を見通す意見を持つ人々や、変化の落着点・コンセンサスを何となく感得出来る中間層がある程度いる、という前提がなければ、米国的な自由は機能し得ない。
だから、それぞれの地域の現状によって、インターネットの活用の方向性は変わってくる。
現状のエジプトでいえば、ムバラクの退陣については圧倒的多数が肯定しているが、その後で圧倒的多数が支持する勢力がみえにくい。そこにムバラクが居座り続けている隙がある(米国が見放したとはいえ、これまで長く米国の後ろ盾があった、という事実も含めて)。
混乱をうまく主導して、静かに政権移行をしていくのは、なかなか難しい。どの地域でも、東ドイツの崩壊と東西ドイツ統合のような運びに出来るとは限らない。
とはいえ、通信を遮断されると、海外から助けがあるなど、やはり通信と情報の重要性、というより必要性は多くの人々が感じ取っているところでもある。
今のような時に大切なのは、インターネットそのものに何か特別なものがあるわけではない、ということを踏まえておくことだと考えている。
インターネットは情報世界の空気のようなものであること。
それにより、各人の言動、思考、感情を、より速く遠くへ飛ばし合うことが可能であること。
ただし、それをどう受け取って運営していくかは、あくまで携わる人々による、と認識していること。
自由が、単なる混沌と無秩序といったものと一線を画するためにも、これは重要なことだ。
インターネット上に流れる情報はスムーズに流通していく必要がある一方で、それを見せるレイヤー(具体的には端末本体や、その上で動く情報ブラウザなど)において、選択的にみせる技術と運用も今後は視野に入ってくるかもしれない。
ただし、それは情報を提示する側、発した側が、こういう人々に見せるデータだという認識コードを埋め込むことで制御され、どこかで勝手なフィルタリングをかけないようにすることも、条件として必要だと考える。発する側が、自由意志をもって制御するという形だ。
さらに、本当に私的なデータは、会って相互の端末のみで(つまりインターネットを通さず)やりとりすることが一般化する方がいいかもしれない。離れた相手に送る場合にも安全な暗号化/簡単な解読手順が普及し、一定時間を経るとインターネット上から跡形もなく消失するようなことも必要かもしれない。
さらに踏み込むならば。
現在は多くの国々で、ネット企業と呼ばれる会社、たとえばAppleやGoogleやAmazonが、あるいはNTTドコモやauやソフトバンクが、あるいはソーシャルネット運営会社、ネットコンテンツの提供会社などが、これまでのビジネスをデータ化して、取り込む状況が続いている。
しかし、Appleは端末とそのコンテンツを売る会社だし、Googleはネット情報を集めて広告で儲ける会社、Amazonは書籍や様々な商品を扱うネット上の百貨店。携帯電話会社は、無線によるネットインフラを提供する会社(そのために端末やコンテンツに力を入れる)。そして、ソーシャルネットとは、人の繋がりを集積させることで、広告を含む情報圏と経済圏を作る会社。
それぞれやっていることや目的は異なる。
この中では、人を繋ぐソーシャルネットが、端末やインフラなどの一つ上のレイヤーで、社会的な要素を取り込みつつ変化し続けていく可能性が高い。
さらに言えば、インターネットが本当に広く普及して空気になる時、その上で暮らしていく社会のようなものも生まれるはずであり、それは最終的には現実の人に着地するポイントも出てくる、ということだ(逆に、あくまでヴァーチャルな自分を演出し続けるポイントもあるだろうけれど、人は100%一つの側面だけに縛られるものではないから、ある程度複数の側面を維持することだって十分あり得ると思う)。
現在のソーシャルネットはまだその途上であるし、それを私企業がやるのか、国や自治体等もやるのか、また個人がいくつものソーシャルネットに加わっていくことが常態化するのか、ソーシャルネットの次の存在が出てどんどん変化していくのか、といった様々なことは、これから体験(実験)していくしかない。
単純に楽観視をしているだけではないが、悲観視するだけではもっとよくない。インターネットを含む広帯域通信が空気のようになり、ネット企業やネット文化という言葉が過去のものになって、生活の一部に(老若男女などを問わず)溶け込みつつ、様々な地域をいがみ合わせずにやりとりしていく知性を、より多くの人々が共有していく…
可能かどうかはわからないが、そういう世界になっていくことを、個人的には望んでいる。
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朝日新聞の東京版朝刊には定期的に「知事発言から」という質疑応答の抄が載る。定例会見からの抄録だ。現在は「石原知事発言から」という見出し。
2011年2月1日の東京版朝刊には、1月28日の定例会見からの質疑が載った。「アニメフェア」「君が代訴訟」「性犯罪者にGPS」の3項目について、簡潔なまとめだ。
この中で、アニメフェアのことが気になった。
東京国際アニメフェア(東京都主催で知事が実行委委員長)の出展ブースが2割減ったこと、それが青少年健全育成条例改案に出版社などが反発したことが影響しているという質問をうけ、知事がコメントしている。その途中経過を略した形での記載。
全文引用するわけにはいかないし、リンクを記載したいのだが、アサヒ・コムには該当記事が見当たらない(知事発言から、の記事集が検索しても見つからない)。
なので、ざっくり要約してみる。
この間も出展をボイコットした社の雑誌にインタビューをうけたので、それはおかしいじゃないかと言ったが、インターネットにはもっとけしからん情報が流れているのにアニメ・漫画だけを販売規制するのはおかしいという(記者略)インターネットは日本全体で一つのメディアであって、国がコントロールすべき。都は都の範囲内で責任を果たしているだけ、本質を理解して協力してほしいし(記者略)もう少し冷静に意見交換をし合うほうがいいと思う。
元の記事が質疑の要約だし、意味が通るようにしようとすれば極度に短くも出来ないので、ある程度の長さになってしまった。関心を持たれた方は図書館などで新聞を直接どうぞ。
(本当はTOKYO MXで放映される知事会見を録画するといいのだろうが、それを毎週観られるとは限らないし、TOKYO MXは電波条件が都内でもよくない地域さえあるため、こういう要約はありがたい。)
閑話休題。石原都知事はつまり「インターネットは都だけで流通・管轄しているメディアじゃないから、国がやること。出版物は自治体ごとに定められる部分があるので、そこで必要な措置をとっているだけだし、(以前から何度も言ってきたように販売の条件をつけるだけで、出版そのものを規制などしていないのだから)過剰反応だ」と言いたいのだろう。
このアニメフェア云々のことが気にならないわけじゃないが、いまはおいておく。
気になるのは、石原都知事が、インターネットを日本全体のメディアと位置づけて、それを規制するのは国である、という考えを明示したことだ。
こうした発言はおそらく、携帯電話やパソコンのメールを郵便物の代替と捉え、またウェブブラウザ経由の情報を新聞・雑誌・書籍や放送・ビデオ・音楽CDなどの代替と捉える、という発想が背景にありそうにみえる。そして、インターネットは日本全体のメディアだから、そこでのコンテンツ購入などには国からの販売規制が必要だ、という発想に繋がってもいるようにみえる。
この憶測が違っていたとしても、少なくともこれは、インターネットの本質をほとんど理解していないことを示す。
念のために断っておくが、だからこの発言は意味がないと言いたいわけではない。
むしろ石原都知事に限らず、現在インターネットの本質をあまり知らない人が、それに触れたらどう考えるか、ということに興味がある、ということなのだ。
インターネットのそもそもの性質には、自由な情報流通と、中央管理機構の不在がある。
たとえば大学や企業や自治体などの組織では、組織内の複数のコンピュータを接続しあって、文書を共有したり、会議室を予約したり、組織内の決済を行ったりしている。組織の中だけの、いわばローカルなネットワークでコンピューターを接続し合っているから出来ることだ。
インターネットとはもともと、このローカルなネットワーク同士を結合するところから始まっている。
米軍の研究において、一箇所にコンピュータを集中させず、あちこちに分散させ、一箇所が攻撃を受けても、他が生き残っていることでしぶとくオペレーション実行を可能にする、ということを実証するためだった。大学、研究所同士を結び合う形で広がっていき、1980年代半ばまでには軍と切り離された存在となる。
そうなれば、民間の様々なコンピューター同士を結び合う形で広がっていく。もちろん接続する人々が飛躍的に増えれば、大きなサーバーを持つインターネット・サービス・プロバイダー (ISP) と呼ばれる企業が登場して、企業や個人、さらには国や自治体などのインターネット接続を請け負う形になる。
ただし、その技術の根幹は、ローカルなネットワーク同士を接続する形で、しぶとく生き残る分散型ネットワークとして発展を続けている。
つまり、インターネットに基づく便利な機能の多くは、公開された情報を自由に流通することが前提であり、またネットワークが次々に繋がっていくから、全体の中央管理機構のような「中心」を理論上は持たない、ということになる。
インターネットの出自と仕様から導き出される、インターネットの本質だ。
もちろん、特定の組織が、大量の情報を蓄えたサーバーを持ち、実質上のネットの中心のように機能するケースは存在する。Googleのような組織はその一例。が、万が一それがすべてのデータを破棄したり遮断したりしても、誰かが保存してあれば、別の地点でデータが生き続けることは可能、ということだ。
さらに、パソコンなどでファイル共有・データ交換を簡単に行えるP2Pソフトは、分散する様々なコンピューター同士を連結していくインターネットの性質を端的に表している(それだけに、その性質を理解し、使用時のリスクは理解すべき、とも言える)。
このような底抜けに楽天的な、自由への信仰表明と言えるような仕様は、情報を各個人に行き渡らせ、個人の行動や言説がより自由になって、活力ある社会の形成に向かう流れに繋がりやすい。
だから、単にウェブページで情報発信するだけでなく、ソーシャルネットで人と人が加速度をつけて繋がり、20世紀までの発想では考えられなかったような人間関係や経済圏の発展に結びつこうとしていく。
そこには、米国に代表される、個人の自由と尊厳を重視する民主主義国家の本能のような側面がある。一方で、米国でもそれ以外の国や地域でも、これまでのやり方を守りたい人々と、ネットを活用して新しい文化を築きたい人々との間でも、これまで考えられなかったやりとりが必要になる可能性が高い。
様々なニュースサイト、たとえばCNN、WSJ、Financial Times、Washington Post、Boston Globe、NewYork Times、BBCなどの英語圏のニュース、あるいはさらにフランス語や中国語なども含めた様々な言語のニュースサイトや掲示板などに直接触れるだけでも、日本のニュースメディアが報道しない情報が大量に流れていることがわかる(私はせいぜい英語だが)。日本に居ながらにして、英語だけでもざっと記事を眺め、日本のメディアが何を報道していないかを確認出来る。
また、2010年に中国政府とGoogleの間に係争があったことは記憶に新しいが、インターネットの本質的な自由を保証することを前提にするGoogleと、情報の流通を全面的に制御するのは国家として当然と考える中国との対立、ととらえられる。
さらに、チュニジアやエジプトなどで今現在進行中の、独裁による親米イスラム政権の倒壊や危機がインターネットを経由して起きたのも、その性質上当然とも言える。実際、米国政府はエジプトの混乱が長引くにつれて、ムバラク政権を見放すような発言に変化してきている。
Webページ、Twitter、ソーシャルネットなどを使えば、上記のような事件についても、現地の個人やジャーナリストが発する生の情報に触れられる。それだけでわかった気になるのはとても危険だが、TVからの受け身の映像だけではわからない、細かい側面を知ることはできる。
こうした情報の流通を、現在は(ニュースサイトや公開されたページなら)中学生でも英語を学びながら、読むことだってできる(ハードルは低くないとは思うが、すごく高いわけでもないはず)。
このようなネットの仕組みを今後も活用するには、国が情報流通の規制を敷くことが得策とは言えない。技術的に遮断するのではなく、公開されている情報にはアクセス可能だが、運用を適切に行っていくしかないのではないか。
情報流通を年齢や立場に応じて規制する仕組みを開発して導入したとすると、極端な言い方をすれば中国と同様のネット管理を始めるようなもの。たとえば、公式の声明で「18歳未満の青少年育成の保護以外の規制はかけていない」と言いつつも、実際は細かい規制を張り巡らせ、国民に余計な情報を知らせない仕組みとして運用することも可能であるから。そして、その仕組みを導入していないISPや携帯電話会社などは運用出来ないような法律が出来たら、文字通り、知る自由が奪われることになる。
一方、都知事の発言からは、ネットについても、放送や出版に相当するような規制を、国全体で設けるべきだと考えている、ということがうかがえる。
しかし、ネットワークを活用する社会は、単純にこれまでのやり方の延長上で類推して適用していくのは問題がある。もっと慎重になってもらいたいところ。
都知事は宮城県の「性犯罪者のGPS所持」に関する条例については驚いており、人権やプライバシーなど賛否両論出るだろうし、即答は出来ない、ただ思い切った措置だとは思う、といったことを述べていた。
なんでも規制すりゃいい、といった頭の固さがないなら、インターネットや漫画・アニメのあり方に対しても、もう少し柔軟な理解を示してほしいところだ。
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